2019年5月2日木曜日

髙柳重信「しづかに/しづかに/耳朶(みみたぶ)色の/怒りの花よ」(「NHK俳句」5月号)・・



 「NHK俳句」5月号(NHK出版)、「わが師を語る『髙柳重信』」は林桂。語るべき師があるということは羨ましいことだ。愚生にはそうした、いわゆる師弟と呼べるような密度の濃さはどのような俳人とも築くことができなかった。愚生の紹介記事などで、たまに赤尾兜子「渦」に投句、師事とあったりするが、それも二十歳前後の時に、2~3年「渦」に怠惰に投句していたにすぎない時期がある、という程度のものである。21歳のときに東京に流れついて、ちょっとした偶然に「俳句評論」の句会に出席し、初めて高柳重信に会った。「君はどこにいたのかね」と尋ねられたので、仕方なく、赤尾兜子の「渦」です、と答えたら、「兜子は、オレの弟分みたいなものだから」と返事が返ってきたのだった。本誌本号に林桂は、

  髙柳重信の俳句は概(おおむ)ね四行の多行形式で表記されている。一般的に私達の知る俳句の姿からは異形(いぎょう)な姿で、それだけで狭隘(きょうあい)な否定的意見を述べる人がまだいる。評論家の磯田光一(いそだこういち)氏は「髙柳重信は様式の破壊者だったであろうか」と問い、「髙柳重信もまた保守派なのである」「様式主義の司祭」と答えているのが、最も正鵠(せいこく)を射ている。(中略)
 髙柳の俳句はストイックである。幾重にも定型の制約を課している。一般的に言われる俳句定型の制約以上のものを自(みずか)らに課す。無季も季語に相当する言葉を使用している。そうした重圧の中でこそ定型の言葉は反発して耀く。だから、磯田氏は「保守派」と言ったのだ。四行表記もまた俳句の言葉の本質を見極めた上で、その言葉を輝かす方法の一つとして用いられている。

 と述べているが、その通りだと思う。そして林桂は、

 目醒(ざめ)
 がちなる
 わが尽忠(じんちゅう)
 俳句(はいく)かな       髙柳重信

 その生き方に今も教えられ、勇気づけられ、俳句の仕事の指針としている。

 と、この文を結んでいる。これも見事な志である。こうした志をこそ髙柳重信は繰り返し述べていたのだから。対して、重信に詰屈な文体と言われた兜子は、呼応するように、といっても、世間では伝統回帰と言われながらも、「俳句思へば涙わき出づ朝の梨花」と詠んだのだった。
 重信つながりで言えば、同誌同号には、仲寒蟬がアンソロジー「俳句と暮らす 音楽」の項に、

  夜のダ・カポ/ダ・カポのダ・カポ/噴火のダ・カポ  髙柳重信

 の句を引用して、

  ダ・カポは演奏記号で「曲頭へ戻る」の意味。句の中で「ダ・カポ」が四回繰り返されるのと呼応する。溶岩がコポコポ音立てているような。

とコメントしている。ブログタイトルにした「しづかに/しづかに/耳朶色の/怒りの花よ」の句の林桂のコメントには、

 劇的な怒りもあれば、継続される怒りもある。自らを言いなだめつつ、持続の怒りを持ち続けたのが重信だろう。

 とある。高柳重信の句のなかでは、愚生のもっとも好きな句でもある。その他、数句をコメントとともに引用して以下に挙げておきたい。

 ふるさとの墓地に蟬(せみ)鳴く此(こ)の日はや 『前略十年』(昭和29年刊)
   終戦日の句。東京で生まれ育った高柳の故郷は父母の地・群馬であった。そこで
   終戦を迎え、いまこの墓地に眠る。

 身をそらす虹の/絶巓(ぜってん)/処刑台  『蕗子』(昭和25年刊)
   身体の喩(たと)えで表された虹のアーチの高みに処刑台が掛かる。身体の
   比喩(ひゆ)が意味を深めて艶(なま)めかしさを増す。(/は改行)

 まなこ荒れ/たちまち/朝の/終りかな    『蒙塵(もうじん)』(昭和47年刊)
   朝はすぐに終わりを迎える。それは荒れた眼という自身に起因する。しかし、そ
   れは終末を見届ける視力でもあろう。

 弟(おとうと)よ/相模(さがみ)は/海(うみ)と/著莪(しゃが)の雨(あめ)
                       『日本海軍』(昭和54年刊)
   相模が軍艦名だが、この句は地名性が強い。相模の海と著莪に降る雨を前に、
   心中に亡弟を呼び寄せ語りかける。

 友よ我は片腕すでに鬼となりぬ        『山川蟬夫句集』(昭和55年刊)
  友として選んだ者に、自身の片腕が鬼神に変容してしまった秘密を告げる。
  読者はそれを盗み聞く体(てい)である。

 林 桂(はやし・けい)1953年、群馬県生まれ。
 仲寒蟬(なか・かんせん)1957年、大阪市生まれ。




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