2020年4月15日水曜日

渡邉樹音「冗舌に別れ行く人飛花落花」(第11回ことごと句会)・・・




 第11回ことごと句会(3月21日・土)、は自粛の為、紙上句会となった。来たる4月25日(土)も、会場(ルノアール)からの非常事態宣言下による要請も含めてリアル句会は中止、メールのやりとりなどという近代兵器は使用せず、書簡往復句会(郵便料金は事務局が負担)である。というわけで、ゆうたりと進行・・・以下に一人一句を挙げておこう(兼題一句は「言」)。

    花の下ままごと遊び独り言      照井三余
    仄暗い花の盛りや予言の書      渡邉樹音
    下萌の土手に姉妹の一輪車      武藤 幹
       弘前城の鯉
    花筏(また)冬が来たかと思うべな  金田一剛
    カリヨンのあわき音色や淡雪です   大井恒行





★閑話休題・・・大橋裸木「インキの染みた指で豆をかぞえている」(「コスモス通信」とりあえず 二十四号より)・・・


 「コスモス通信」とりあえず24号(妹尾健)、「『自由律の出現』七/荻原井泉水『俳句作法について』」のなかで、

 (前略)もともと自由律なのだから作法があるというのはおかしな話である。井泉水はこう言い始める自分が真実感じたことを自分の言葉に移して表現する。いわば産み出すのであってこしらえるものでは断じてない。だからこしらえあげることを教えるときに「作法」はいるかもしれないが、真実自分の感じたものを自分の言葉に移すのに「作法」などというものはいらないというわけだ。「作法」が必要なのは発句のこしらえ方であって、このこしらえ方がうまくいくために「作法」が必要になってくるのだ。俳句らしきもの、こしらえられた俳句のかたちを「作法」は提示してくれる。しかしそれはあくまでも作法制約にのっとってできるものであって、つまり、こしらえものの「作法」を実践した結果なのである。 

 という。また、

 (前略)「定型律俳句が流行をきわめる唯一の理由は全くこの意味は大衆的の玩び物に適しているからである」と決めつけている。俳句作法のもちいるところつまりは「大衆の玩び物」に帰着するわけだ。ここで私見をくわえれば、自由律俳句の裏側にしのんでいる或るものは内部的発動という自己表現であり、それをもちあわせていないものは既成の自己を表現になぞることでしかないということになるのである。(中略)ただ井泉水がしきりに生活感を強調していることに注目しておきたい。俳句的情趣よりも、生活の中に詩を発見しようとするのが、彼のもうひとつの力点である。(中略)
 この場合俳句的情趣よりも実感としての生活を考えれねばならぬことはいうまでもない。その変化に対応して俳句もまた変化しなければならない。形式を変化させよといいたいのではない。作者の内部衝動の新しさ発見せよといいたいのである。

 とも述べている。ともあれ、以下に、句日記の約100句からいくつかを挙げておこう。


、   白い蝶に病に負けるなといわれ      健
    白き蝶白き椅子指し来たりけり
    冥き世の花の驕りもよしとして
    夕桜妻はいつものひとりごと
    一心に見る時はやし花筏
    桜爛漫散り際はすぐそこに




                撮影・染々亭呆人 ↑

0 件のコメント:

コメントを投稿