2020年4月21日火曜日

飯田龍太「かたつむり甲斐も信濃も雨のなか」(「WEP俳句通信」115号より)・・



 「WEP俳句通信」115号(ウエップ編集室)、特集は「座談会〈切字神話よ、さようなら」。出席者は岸本尚毅・高山れおな・筑紫磐井。31ページを占めて、「切れ」「切字」論を総覧。読み応えがあるが、三人ともザックバランな物言い、しかもそれぞれの俳句観がよく出ていて、分かりやすい。俳句実作上の機微について、意外に正直に答えているので、じつはそれが読みどころではないだろうか。ようするに、実作上からすれば、切字がどうの、切れがどうのとういうよなことをあれこれ考えて、俳句が作られているのではない。究極、どのような作者も一句をなすために、悪魔の手でも借りたいくらいに真剣に知恵を絞っているようなのである。現俳句界の制度的な読みや固定的な俳句作法が蔓延していることに対する苦言の座談でもある。いちいち紹介するスペースも能力も持ち合わせていない愚生だから、興味を持たれた方は、直接本誌に当たられたい。「切字と切れ」の小見出しの一部分を以下に引用しておこう。

  岸本 切れというのは一般名詞だとおもっています。切字はやっぱり俳句のテクニカルタームと思ってまして、切れは球(タマ)の切れとかおしっこの切れと同じだと思うんです。(中略)
 高山 「切れ」は一般名詞というのは、僕もおおむねその立場です。どうしてもテクニカルタームとして使いたい人がいるなら止めませんが、その場合はきちんと整理して、使用範囲を限定したうえでのことになります。無限定に使えるような歴史的な実体がある言葉ではないことは繰り返しておきたい。(中略)
 切字があってもいいし、なくてもいい。そんなことは三百年前に結論は出ていたはずなんですけどね。(中略)
 岸本 「春すでに高嶺未婚のつばくらめ」に切れ目を入れようとすると、なんか句が駄目になっちゃうような気がします。

 というような塩梅である。本座談会の結論のようにさえ見える筑紫磐井の連載「新しい詩学のはじまり(二十四)/番外編――切字神話からの決別—」も実証を駆使した説得力ある論考で、こちらも一読に値しよう。ここでは、その言挙げの結論部分を以下に引用しておきたい。

  要は俳句の未来は、伝統的な切字を踏まえつつも作家それぞれが血の滲むような文体の修練をすることにあるのだ(もちろんこれに対する力強い反論も歓迎する。ただ有名な芭蕉の「四十八文字皆切字なり」とは、切字の重要さをいうのではなく、逆説的な切字不要論だと私は理解している)。波郷のようにや・かな・けりを入れようと言うのも否、ましてや切れのあるなしなどとは何の関係もないのである。

 と言い切っている。本誌の他の連載記事では、4回目となる林桂の「俳句の一欠片(ワンピース)」も注目で、一欠片どころではない、分量とも細緻な論考である。「今回の紹介は、その長谷川零余子の初期活動の舞台となった『朝虹(あさにじ)』である」。この「朝虹」44冊が「古書通信編集長の樽見博氏によって発掘された」と述べ、その資料を駆使しているのである。一読あれ。ともあれ、以下に、本誌本号よりいくつかの句を挙げておこう。
  
  ゐる人となき人の影春障子        桑原三郎 
  常なるも寂しくありぬ貌よ鳥      佐々木六戈
  ふらここの板一枚の別れ霜        松尾隆信
  蜃気楼めざす舟あり我も乗る       石倉夏生
  復活祭光の束のアラバスター       小林貴子
  アランキュラスは求愛の花四月来る 七田谷まりうす
  アメンボウしゃがんでいても雨になる   西池冬扇 



               撮影・染々亭呆人 ↑

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