2020年12月9日水曜日

桂信子「山茶花の白のたしかさ死のたしかさ」(「コスモス通信」とりあえず32号より)・・



 「コスモス通信」とりあえず32号(発行者 妹尾健)、月一回ほどのペースで発行されている。巻頭には、いつも妹尾健の評論が掲載され、かつ「句日記」と称して、毎号100句ほどが載っている。油が乘ってきたというか、論と句とも、内容が充実してきている。なかに先々号あたりから、自筆そのままがコピーされた特別エッセイ「私の桂信子研究」が掲載されている。秋華という人だが、愚生には心当たりがない。今号の題は「私の桂信子研究③/エッセイ 山茶花」である。その中に、


     山茶花の白のたしかさ死のたしかさ    桂 信子

               山茶花やいくさに敗れたる国の      日野草城

  (前略)日野草城が亡くなったのは昭和三十一年一月二十九日。

  掲句は句集『晩春』所収の昭和三十三年の作品。まだまだ日野草城が心の中を大きく占めている証しです。山茶花を見るたびに師の草城と結びつき、単に懐かしむという想いではなく、残念に思われたに違いありません。

 信子先生の「草苑」創刊は四十五年。「『草苑』を創刊するとき、その挨拶の中で、私は『草城先生の御心を心とし』と書いた。」(散文集『草花集』より)(中略)

 昭和三十六年にも、見逃せない句があります。

  山茶花の白さまともに眩みぬ    桂 信子


とあった。今号の妹尾健の論は「近代化と復古思想」である。


(前略)正岡子規は復古主義者であると述べたのは荻原井泉水である。井泉水は近代化の方へ傾くことによって子規の復古主義を見抜いたのである。(中略)子規はむしろ復古主義者であることによって革新主義者であった。この革新主義とは即ち近代化思想ともいうべきであって、近代化にも偏らず、旧派にも偏向せずして、復古して新なるものを得ようとする立場である。世の人が和歌俳句の前途に不安をもつことに対して、子規はより痛烈に「対して云う。その窮まり盡すの時は固より之を知るべからずといへども、概言すれば俳句は己に尽きたりと思うなり。」と答えている(獺祭書屋俳話)。この危機感はどこから来るのか。それは復古の対象、明治の日本に対する危機感である。今の世の人は日本国家のみならず、和歌・俳句にいたるまで危機の切迫していることを感じようとしない。このままでは衰退してしまうではないか、と子規は声を上げているのである。その彼の怒りが復古を生んだ。復古がなければ新もまたない。新と称するものは未消化の外国模写に過ぎない。それはたちまち泡沫と化するであろう。泡沫に過ぎない新はもとより新とするに足りない。


 そして、妹尾健は結語する。


 かかる中で、私たちが俳句をえらびとるのはほかでもない。我々の今日生きる現実を見つめ続けることであろう。詩心を求めるということは日々の生活の中であくまでもにんげんらしくいきていくことを証明するためである。もし毎日の生活の中で詩心を見出さねば我らの生活は無味乾燥に堕するであろう。画一的な社会の現実はいよいよ私たちを狭い詩心のない世界に追い立てられていくであろう。俳句は詩であるといいきらねばならぬ。俳句は詩でなくてもいいという人たちがいる。俳句は一種の芸能のようなものである、と高言する人もある。そして彼らはそれから発して伝統俳句などと言い出すのである。伝統とうものは切れば血の出るものである。(中略)

 しかし、伝統は復古である。あくまで時流に反して生きていかなければならない。そうしてこそ精神というものができあがるのである。この精神のないところに伝統はなりたたない。ただ伝承を繰り返した先人の模倣に終始するのみ。近代化のあとに続くものは現代化である。この時間の推移に現代化と復古を融合することこそ、私たちがめざしていく脱近代現代化の大きな課題であると思うのである。 


 ともあれ、本号の「句日記」の中から、彼のいくつかの句を挙げておこう。


   雪便り長き時間の訪問者         

   足温め母の言葉は「前進せよ」とのみ

   どの空も蝶の往還あわただし

   逝去されその夜の夢に出て話す

   その世とは昭和のことか大時計

   老女いて艶なる頬に寒椿

   北風に肩寄せどうも夫婦には見えぬ

   寒灯やときに隣に西鶴翁

   寒釣りのあきらかに眠っておるように

   亡き父のオーバーいつの世も拒む

   冬ごもり飯島晴子氏あれば問う


 


          撮影・鈴木純一「落葉して銀杏浄土か心付く」↑

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