2020年12月6日日曜日

岩本益臣「身はたとへ南の海に散りぬともとどめおかまし大和だましひ」(『不死身の特攻兵』より)・・


 明後日、8日(火)は開戦日。季語にもなっている。イマジンのジョン・レノン忌でもある。世が世なら姫君だったという昔の同窓生から、愚生(爺)に勧められた本が、 鴻上尚史『不死身の特攻兵ー軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)である。多くの人に是非、読んでもらいたい一冊だというので、図書館で早速借りてきた。本書は特攻隊がどのようなものであったか、インタビュー、事実の資料を駆使して克明に描かれたノンフィクション(小説の方は『青空に飛ぶ』・講談社刊)である。鴻上尚史は「はじめに」の冒頭で、


 ある本の小さな記述によって、「9回特攻に出撃して、9回生きて帰ってきた」人のことを知りました。

 その人は、陸軍の第一回の特攻隊のパイロットでした。

 海軍の第一回の特攻隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊と名付けられ、零戦に250キロ爆弾を装備して体当たりしました。陸軍の第一回の特攻隊『万朶(ばんだ)隊』は。九九式双発軽爆撃機(きゅうきゅうしきそうはつばくげきき)に800キロの爆弾をくくりつけて、体当たりするものでした。

 それでも、9回出撃して、体当たりしろという上官の命令に抗い、爆弾を落として、9回生きて帰ってきた人がいました。名前は佐々木友次(ともじ)。その時かれは21歳の若者でした。(中略)

ですが、佐々木さんは生きていました。92歳で札幌の病院に入院していました。

 僕は5回、直接お会いし、いろんな話を伺いました。(中略)

9回出撃し、9回生きて帰ってきた佐々木友次さんをたくさんの日本人に知って欲しい。

佐々木友次さんという存在を歴史の闇に埋もれさせてはいけない。佐々木友次さんが何と戦い、何を苦しみ、何を拒否し、何を選んだか。そして、どうやって生き延びたか。生き延びて何を思ったか。一人でも多くの日本人に知ってほしい。

 それだけを思って、この本を書きました。


 としたためている。内容は、第1章「帰ってきた特攻兵」、第2章「戦争のリアル」、第3章「2015年のインタビュー」、第4章「特攻の実際」。

  その概要は、上官であった岩本益臣大尉隊長は、飛行機を体当たりさせる作戦に、反対(腕の良い飛行機乗りは、爆弾を命中させて、何度も敵と戦うことを選ぶ)であった。上層部の了解を得ず特攻機を爆弾を落とせるように改造。軍の命令違反は、当時は死刑相当である。空母の甲板は鋼鉄で「卵をコンクリートにたたきつけるようなもの」で体当たりには効果がない。岩本隊長は言う。「出撃しても、爆弾を命中させて帰って来い」と。そして「飛行機乗りは、初めっから死ぬことは覚悟している。同じ死ぬなら、できるだけ有意義に死にたいだけさ。敵の船一隻も沈むかどうかも分からんのに、ただ体当たりをやれ、『と』号機(特攻用飛行機)を作ったから乗って行け、というのは、頭が足りないよ」と。また、


 『神風』(デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー著 時事通信社)によると、海軍特攻戦死者は2525名、うち予科練出身者1727名。エリートである海軍兵学校出身者は110名。(中略)

 エリートを外し、若者を送り出したという点では、海軍も事情は似ていました。(中略)予備士官の20歳前後の下士官か、学生出身の予備士官でした。全体の特攻死者の中で、予備士官の戦死が25%。士官の死者全体の80~83%を占めます。エリートである海軍兵学校出身者は、全体の4%。士官でみれば、わずかに1%から1.4%ほど。

 という記述もある。まして体当たりで艦への命中率は10%台である。

未熟で若いパイロット

(前略)『万朶隊』や『富獄隊』、そして『敷島隊』のように、初期はベテランパイロットを特攻隊員に命じましたが、沖縄戦になると、はっきり未熟で経験の浅いパイロットが特攻隊員として選ばれるようになりました。それが予科練であり、予備士官、特操、少年飛行兵の若者達です。(中略)

 体当たりを成功させるには、ある水準の技量が絶対に必要なのです。

けれど富永司令官のように空戦の経験がない参謀は、「体当たりは、爆弾を落とすより簡単だろう」という憶測で命令を出し続けたのです。

 圧倒的に飛行時間の足らない操縦士を、ボロボロの飛行機で送り出した上官たちは、どんなに言い訳しても、若い人命を消耗品と考えていたとしか思えません。彼らはどこまで本気で成果を上げると信じていたのでしょうか。


 その岩本大尉は、初戦を戦うことなく戦死する。フィリピン「第四航空軍に配属」になる際に、ブログタイトルにした岩本大尉の辞世の歌に付けて、妻・和子は、


 家をすて妻を忘れて国のためつくしたまへとただ祈るなり   和子


 と詠んでいる。「陸軍参謀本部は、なにがなんでも一回目の体当たり攻撃を成功させたかった。そのために、技術優秀なパイロットを『万朶隊』に選んだ。

 けれど有能なパイロット達は優秀だからこそ、パイロットとしてのプライドがあった。爆弾を落としてアメリカ艦船を沈めるという目的のために、まさに血のでるような訓練を積んだ。『急降下爆撃』や『跳飛爆撃』の訓練中、事故で殉職する仲間を何人も見てきた」。(中略)「技術を磨くことが、自分を支え、国のために尽くすことだと信じてきた。だが、『体当たり攻撃』は、そのすべの努力と技術の否定だった」のだ。特攻機には銃座がはずされ、防御する火器はない。9回帰還した佐々木友次には、二度も戦死公報が出され、町では英雄・軍神とされ、葬儀も行われている。そのため、すでに死んでいる者(佐々木友次)には、帰還されては困るのである。秘かに、軍の上層部によって、銃殺すら企画され、マラリアで魘されていた時でさえ、出撃命令が繰り返される。それがトータル9回に及んだ出撃の真実なのである。その暗殺の計画は、偶然にも敗戦によって、途絶え、佐々木友次は救われる。何度も出された出撃命令は、ひたすら、体当たりして、彼に死んで来いと、命令され続けられていた。それらのことごとくに、自らの信念と、日ロ戦争の決死隊白襷(しろだすき)隊の一員だった父・藤吉の「人間は、容易なことで死ぬもんじゃないぞ」という声を聞きながら、抗っていたのである。著者の「おわりに」には、以下のようにしるされている。


 佐々木友次さんは、2016年2月9日、午前7時55分、92歳で札幌の病院で呼吸不全のため亡くなられました。

 僕が最後にお会いした2か月後でした。(中略)

 当別町にある友次さんのお墓には、次の文字が刻まれています。


 哀調の切々たる望郷の念と

 片道切符を携え散っていった

 特攻という名の戦友たち

 帰還兵である私は今日まで

 命の尊さを噛みしめ

 亡き精霊と共に悲惨なまでの

 戦争を語りつぐ

 平和よ永遠なれ

   鉾田陸軍教導飛行団特別隊

           佐々木友次   (以下略)


鴻上尚史(こうがみ・しょうじ) 1958年、愛媛県生まれ。



   撮影・芽夢野うのき「マッチで灯す真夜の蜜柑と心の臓」↑

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