2020年12月31日木曜日

西川徹郎「屋根裏に誰も知らない鶴の村」(「西川徹郎研究」第二集より)・・・

 

 「西川徹郎研究」第二集(茜屋書店)、その巻頭のエッセイ「夕映の空知川」に西川徹郎は、


  新城峠の麓の町新城へ開教に入った私の祖父で正信寺の開基住職西川證信(しょうしん)は、道内各地へ布教に出る時は、神居古潭か芦別の駅から鉄道に乗る外はなかった。芦別の町へ出るには、十四、五キロの峡谷の道を徒歩で越え、この空知川を必ず渡らなければならなかった。北海道の開教期を代表する僧侶で京都の本山西本願寺で聲明(しょうみょう)や勤式(ごんしき)の指導者だった私の祖父證信は、若き日より清冽な信仰に燃え、七五歳の晩年に至る迄、雪に埋もれた暁闇の道なき道を越え、幾度この川を越えたことであろう。(中略)

 私の文学は一言で云えば、かの文藝史家平岡敏夫が命名した〈夕暮れの文学〉であり、作家斎藤冬海の西川徹郎論「秋ノクレ論」の「秋ノクレ」の文学である。夕暮れ、即ちそれは生と死の狭間、日と夜の、そして月と日の光の擦過する狭間である。この淡く眩い光の中に浮かび出づる十七文字の存在の幻影が私の文学である。それ故、それは〈十七文字の世界藝術〉であり、〈十七文字の銀河系〉なのである。

 私のこの十七文字の藝術は、薄っすらと血の色に染め上げられている。それはかの啄木へ羨望の念を抱きつつ夭折した我が子信暁の念いを胸にこの川を越えた若き日の我が祖父證信、うら若き愛人信子と岸辺を迷い歩いた国木田独歩、更には身籠った幼き妻を旧里においた儘北海道を彷徨した葛西善蔵、彼らの若き日の胸はまさにこ地獄の火焔の如き北天の夕陽に焼かれていたからである。


 と記されている。本号の記事の特集の一は「第四回西川徹郎記念文學館賞」、二は「西川文学と世界思想Ⅰ 西川徹郎著『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』」、そして、他に、「西川文学と世界思想Ⅱ 綾目広治著『惨劇のファンタジー 西川徹郎十七文字の世界藝術」,

「諸家 評論&エッセイ抄/書翰&通信抄」などからなっているが、再録記事も多くある。愚生は、恐縮、締め切りにはるかに遅れながら、『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』論として「『青い旅』から」を寄稿した。その冒頭近くに、


 (前略)西川徹郎の名を胸に刻んだのは、当時の「渦」(一九七二年・六九号)で「二十代作家特集」が企画されたときだ。あれからすでに四十八年が経つ。その特集には、ぼくが憧れて「渦」誌の購読を申し込むきっかけを作った二十歳代最年長ランナーの中谷寛章(享年三一)ががいた。その他、三浦健龍、堀之内勝衣、三輪昌英、大井恒行、西川徹郎、寿賀演子、大路彦堂、高橋織衛、平林茂子、合わせて十名、各人五句+ミニエッセイが掲載されていた。ときに西川徹郎二十五歳、そして西川徹郎の五句と小文を次ぎに紹介しよう。

       青い旅

  夜行都市より鱗一枚一枚剥(は)がし   徹郎

  剃った頭にはるかな塔が映っている

  鶴の憂いのいもうとたちに北は暗がり

  富士のまわりにあおい鬼火のわたしたち

  骨透くほどの馬に跨がり 青い旅   (以下略)


 としたためたのだった。本誌の、この章の他の執筆者は、西川徹郎自身による『天使の悪夢九千句』からの自選22句の他、鈴木創士「そこには修羅と銀河がある 北の詩人西川徹郎」、志村有弘「西川徹郎著『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』」、中里麦外「西川徹郎俳句随想〈唱和性への回帰〉と〈第三イメージの創造〉」、藤原龍一郎「実存俳句の果てしなき旅」などである。また、斎藤冬海の長文の編集後記「阿修羅の詩人 西川徹郎について」が巻尾にあるが、そのかなりの部分は、僧侶・西川徹真(徹郎)と結婚し、本願寺派女性僧侶となった坊守・釈裕美(斎藤冬海)夫妻に対する争闘をめぐる事柄が「七、カルト宗教『親鸞会』について」で詳報されている。いわば文学的な問題ではなく、現実的に宗教的対立が起こっているようである。ともあれ、ここでは、西川徹郎自選句の中から、いくつかを以下に挙げておこう。


  月夜の家出悪魔と遠く自転車で       徹郎

  櫻の國の果てまで縄で連れられて

  村人の舌で刺された父はサルビア

  夕月は湖底で叫ぶ白い鶴

  十七文字で遺書書くすぐに死ねぬゆえ

  島の夜祭線香花火に陰(ほと)焼かれ

  死後二日歌舞練場で舞うお鶴 


       芽夢野うのき「龍の玉まさかの坂を千年ころげ」↑

       皆さま、良いお年をお迎えなさいますように!!

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