※テスト投稿のため記事内容ともに北川美美が投稿。
大原女風にサーフボードをかづく夕 紫黄
私は、そのころ大阪府下の香里園に住んでいた三鬼の意をうけて、翌三十一年の春先の或る日、正午過ぎに、前記支部の月例句会場(注:「断崖」東京支部)を訪ね当てた。私と他の参会者たちとはもちろん初対面であった。その日のことか、あるいはその後のことか、もはや記憶はさだかでないが、私と同様、病院外部からの出席者数名の中に、今は本句集の著者である山本紫黄がいた。
夕刻、散会後、紫黄とは帰る方向が同じとしれた。最寄りの小田急線千歳船橋駅から、一応、新宿へ出ることとした。その車中、私は紫黄に、これからチョット一杯イカガデスと言ってみた。彼はすこしもためらわなかった。そのへんの印象だけはまことに鮮明である。
私が知る前の紫黄は、昭和二十四年に、父、山本嵯迷の勧めに従い作句を開始。ゆかり深い「水明」に拠って長谷川かな女に学んでいたが、傍ら西東三鬼の俳句に魅せられ、昭和三十一年に入ってすぐ、前記の「断崖」東京支部句会にも顔を出すようになったのだという。そして「断崖」本誌の三鬼選句欄に投句をはじめるのだが、このことは余人の場合はいざ知らず、「水明」直系の紫黄の身ともなれば、非常な決意を要したにちがいない。思えば心機一転して改めて自身の俳句の方途をさぐろうという志の問題に帰結するにしても、なみなみならぬ態度であった。
(山本紫黄と私/三橋敏雄) 山本紫黄第一句集『早寝島』
大高弘達『西東三鬼の世界』より
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