畳一枚分の畑を耕し、川の魚を捕り、山菜を摘み、わずかな調味料、わずかな衣服、手拭の二三本などを山主から貰い、機嫌よくくらしていたロクさんを、行政が山中に暮らす「独居老人」と指定してあれこれと行政指導を始めたのだ。すると平素、付き合いがあったわけでもない人らが、ロクさんに対する行政の扱いを依怙贔屓だと言い合い、嫌みの一つ二つを投げかける。人付き合いに不慣れなロクさんに心労が募る。どんなにか苦痛であったろう。いつしか疲れはて、ついに縊れて死んでしまった。(中略)
ここの真夜の闇はしんからの闇で、月星のない夜など十センチ先も見えない。私はこの闇を怖いと思うが、原石鼎はこの闇のなかで、『花影』の佳句を残している。
怖ろしいのは人間の妬心か、山いっぱいの露か、夜の闇か。
他に、第9回田中裕明賞の受賞者・小野あらたの新作10句と「俳句について思うこと」の特別寄稿、そして、選考委員の経過報告も掲載されている。愚生は、小野あらたの句集は読んでいなかったので、何ともいえないが、福田若之『自生地』について語る小川軽舟の言葉に慧眼を思った。
何より感心したのは、現代の言葉(口語の話し言葉と書き言葉)だけで俳句を作り、一冊にまとめあげたことだ。五七五にきれいに収まった口語俳句が陥りがちな標語のような単調さを、福田さんは句跨りなど複雑なリズムを刻むことで乗り越えた。「春はすぐそこだけどパスワードが違う」「ヒヤシンスしあわせがどうしても要る」「ぽーんと日傘手放して海だぁーってなってる」、俳句が慣れ親しんだ文語をあえて拒みながら、口語で読む快感を与えてくれる。俳句が現代以降の時代を生き続けるための一つの扉を開いた句集だと思う。
愚生も『自生地』によって、現代の俳句が、現代仮名遣い、口語で書かれた非俳句として(大袈裟に聞こえるかもしれないが)、十年に一冊、いや二十年に一冊の、まさに時代を画する句集がようやく誕生したと思った。それを小川軽舟は、「俳句が現代以降の時代を生き続けるための一つの扉を開いた句集だと思う」と言う。その通りだと思う。小野あらたの句が悪いといっているのではない。俳句の器が表現してきた言葉の地平の手ざわりが真にあたらしいのだ、と思う。愚生は第一回の髙柳克弘句集『未踏』から、自分なりに、ひそかに、田中裕明賞の対象句集を予想してきた。第二回の受賞作無し(これは御中虫を予想したような?・・記憶はあいまいだが、)を含めて、けっこう当たってきた。今回は、文句なく『自生地』を予想したが、見事に・・・その期待も外れた。まだ俳句の時代の方が『自生地』よりも少し遅れているようだ。
ともあれ、同誌同号より、いくつかの句を挙げておこう。
水門を閉ぢて開きて遊び船 後藤比奈夫
一と棹で流れに乗りし舟遊び 深見けん二
敗戦日いつも求肥はぐにゅぐにゅと 池田澄子
水飲んでしばらく薔薇の空仰ぐ 岩淵喜代子
紙魚の跡無き頁へと行き着きぬ 小野あらた
カルナヴァル忌の聖セバスチャンこそ夏料理 関 悦史
カルナヴァル忌=金原まさ子の命日 六月二十七日
撮影・葛城綾呂 アゲハまもなく羽化へ↑
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