2018年8月17日金曜日
小林良作著『「八月や六日九日十五日」のその後』・・・
「八月や六日九日十五日を」追う!年表 ↑
小林良作『「八月や六日九日十五日」のその後』(「鴻」発行所出版局)、前著『「八月や六日九日十五日」真の先行句を求めて!』(2016年刊「鴻」俳句会)の第二弾である。前著にょってさまざまな人から評されたり、メデアに取り上げられたりして、さらに、この句のあらたな情報が寄せられるなどして、調査が進み、その後も、「八月や六日九日十五日」の句が各地の俳句大会などに選ばれ、もしくは、類想句としてボツになったり、その後のエピソードを紹介している。なかには、
荒川心星氏(「鴻」特別顧問)は、「鴻」誌昨年六月号に「『八月の六日九日十五日』のエピソードを寄稿している。驚くことに、そこには、
八月の六日九日十五日
あつしあつしとかなしきことよ 心星
との短歌を1948(昭23)年に詠んだと記している。その作歌は、氏が旧制中学校(現愛知県立豊田西高等学校)2年生在学の17歳の時であった。(中略)
その心星氏が、短歌と俳句のちがいこそあれ、終戦後間もない時期に「八月の・・」と詠っていたとはー。当時の学校新聞等の所在と搭載記事を手繰ることができれば、まさに公知された短歌「八月や」となり得よう。
とある。また、石子順が東京新聞に連載した「マンガ月評」の「戦争の真実を直視/平和を訴えかける」(1988年8月27日付け)で、
「八月や六日九日十五日」とよんだ俳人がいた。
戦争と平和が凝縮している八月の重みをいい切っている。
との事実にも行きついている。そして、ついにさかのぼること1976(昭和51)年に発表された同句が、小森白芒子第2句集『͡͡壺中の天』(平成2年刊)の集中に、「古希」(昭和51年)の年の部に収載されていることに辿りつく。そして小林良作は言う。
最早、「八月や」詠み人不詳、ではなかろう。さりとて誰の句と特定することもなかろう。「八月や六日九日十五日」詠み人多数ーーそれが「八月や」に対する公平で真摯な向き合い方なのかもしれない。
とし、
私はもう「八月や」の作者を誰彼と云々することは大事の外のこと、と前節で総括した。それでも、
八月や六日九日十五日 小森白芒子(1976年)
が、今日知り得た「公知された『八月や』」の初作である、と記録しておかなけれななるまい。
著者・小林良作自身が「八月や六日九日十五日」を作ったとき、類句があると指摘され、自らの句を没にし、それを機に始まった「八月や」の句の探索の旅はこれで一応終わったのだと思う。戦争に征った人たちの世代が生還して、だれもが抱いたであろう「八月や」の句の感懐は、たしかに「詠み人多数」が相応しい、見事な総括であると思う。
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