2020年5月10日日曜日

大岡頌司「ともしびや/おびが驚く/おびのはば」(「艸(くさかんむり)」第1号より)・・




「艸(くさかんむり)」第1号(編集・発行 佐々木六戈)、佐々木六戈の「跋 note」に、古井由吉の死、本年2月18日(享年82)にふれて、

 〇古井さんの死因は肝細胞癌とのこと。仏教における死因は、生まれたことそのものである。―この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なもの、であったがゆえの死である。序にある素描のアルブレヒト・デューラーの「祈る手」で合掌する。

 とあった。愚生にとって本誌本号の感銘の第一は、葭澤美絵子「さみしさの領土ー大岡頌司」(「霜花草上」)のエッセイである。

 (前略)昨年末、さる古本屋の主人が棚下から出してくれたのは端渓社刊の美しい本の数々。そこに大岡頌司『花見干潟』もあった。
 自序(詩である)の一部を紹介しておきたい。
  さかさ覗きの望遠鏡に、遠い遠い莢豌豆の実は、垂れる。股眼鏡がみつけてし
  まった裏山の繁り。(・・・・)草履近所と遠足、この道を、どこまでもどこ
  までも歩いて行くと、ほいとになれる。
 いちじるしく内面化された故郷である。  (中略)

      ともしびや
   おびが驚く
   おびのはば
 あまりに素朴ではないだろうか。きっちりと長方形に字数を揃えた配列。「おび」の反復は韻文的常套ではあるが、驚いているのは帯自身なのだ。  なのだ。 
  いまは花なき花いちじくの
  日は龍宮の
  杖の釣ざを              (中略)

 そもそも大岡にとって多行俳句とは何だったのだろうか。いや、本当なら「多行」とは、「俳句」とは何か、と別々に問われるものだ。(中略)

 大岡は詩の音楽的な流れを生かす七音を重視するが、最後の決め手となるのは視覚、つまりレイアウトだ。ここで歌的な調べを俳句的リズムに転換するのである。「朝がおよぼす戸袋に/おさめてはみる/今朝のこぎつね」、改行がなければ、子狐は言葉の重量で圧死してしまう。導入部の調べを後続の二行がシンメトリーに字数を揃えて堰き止め、「朝」を「今朝」と限定しなおすことで俳句的な円環をつくる。

 と、見事な剔抉である。本号より、佐々木六戈、葭澤美絵子の句を以下に挙げておこう。

   ひとり棲む母もろともや雪囲      六戈  
   卒業の帽子を投げる落ちてこず    美絵子



★閑話休題・・・大岡頌司「遠船脚母は浅蜊を搔きをらむ」(『郷土出身の俳人、大岡頌司 故郷かわじりを詠む』より)・・・


 大岡つながりで、『郷土出身の俳人 大岡頌司、かわじりを詠む』(大岡頌司君をしのぶ会・2004年刊)。本書は、「大岡頌司君をしのぶ会」の代表で友人の山田喜七の手によって制作されたものだ。その「あとがき」に、

 私は俳句は一句も作ったことがなく、歳時記を一度も読んだことがないが、大岡頌司とはほぼ同年輩であり、同じような少年時代を過ごした上に、長く上京していて定年でUターンした者であるため、子供時代のこと、川尻の地名、名所、方言にある程度通じており、その上、離郷している者の故郷への思いなどを理解しやすい立場ある。(中略)
 晶子未亡人には、➀歳時記や、②俳句入門書を読みなさいといって、これらの本を送ってもらった。その上、解釈の誤りを指摘してもらったのは、数え切れない句にのぼり、彼の帰郷の年月を調査してもらったり、資料の送付を受けたりもした。
 俳句という僅か十七文字の中に込められている想いが、思っていたよりも深く、難解であることを初めて知った。

 と記されている。「平成十六年遺族や友人等により川尻町に句碑が建立された。句は/遠船脚母は浅蜊(あさり)を搔(か)きをらむ/で川尻の昔の遠浅での貝搔きと沖を走る小舟の風景を表現している」とある。

   いくつにも区切られ故郷の刈田美し     頌司
   負荷胸をしめつけ故郷の水田辺をゆく
   此処はふるさと柿は枝葉を伴ひ落つ 
  

 大岡頌司(おおおか・こうじ) 昭和12年3月30日~平成15年2月15日。 広島県呉市川尻町生まれ。



   撮影・芽夢野うのき「むらさきのしぶき岸まであやめ冷え」↑

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