2020年5月2日土曜日

大田美和「チェロ抱くように抱かせてなるものかこの風琴はおのずから鳴る」(『世界の果てまでも』より)・・



 大田美和思考(エッセイ)集『世界の果てまでも』(北冬舎)、表紙カバーには「ひらく、つながる、うまれる」の文字が配され、帯文には、

  大きく変容しつづける世界や現実の中でさまざまな困難に直面し揺れ動いてやまない精神。「思考」とは私の目に映る世界と現実を「試行/エッセイ」する軌跡である一個の私の精神を果敢に刻む散文集ー

 と惹句されている。本書の章立ては5章からなり、「Ⅰ アジアへ」「Ⅱ 日本の短歌へ」「Ⅲ ヨーロッパへ」「Ⅳ 表現へ」「Ⅴ わたしへ」で、愚生のアタマでは、つい外国のあれこれを遠ざけてしまうので、興味は「Ⅴ わたしへ」で、「両姓併記パスポート獲得記 結婚制度を使いこなす」にダイナミックな様々な奮闘を垣間見せてもらったような気分になった。もちろん、職場における夫婦別姓の実現もある。そうした中で、やはり、

(前略)今は二十一世紀だから、夫婦別姓について以前より多くの情報を得ることが出来たが、「両姓併記パスポート」の獲得が難しいことに変わりはない。

 といい、「両姓併記のパスポート」を得たのちに、

 私とて、自分の戦果にただ酔いしれることはできなかった。婚外子や、在日外国人など、自分の名前を名乗る自由を制限されている人々がいることを思うと、結婚制度の中で保護されたうえに、「別姓」まで名乗りたいという私の要求は、虫がよすぎるのではないかと思えてならない。
 しかし、例の職員の最後の一撃が、私を正気に戻してくれた。「大田美和」が法律上存在しないのであれば、それを法律上存在させるための法律を作ることは絶対に必要である。 

 と結ばれている。ブログタイトルに挙げた短歌「チェロ抱くように抱かせてなるものかこの風琴はおのずから鳴る」は、グルジアの映画監督バラジャーノフの映画を観たあとで、連れ合いの江田浩司が詠んだ短歌「絵は俺の昏(くら)き内部に屹立し妻抱けば響動(とよ)む 琵琶(サーザ)のごとく」への返歌であるという。ともあれ、書中より、アトランダムになるが、いくつかの短歌を紹介しておこう。

  過去未来春夏秋冬映し出すバイレルの海上雅臣氏肖像     大田美和
  旅はおんなの羽衣なれば二人子の年齢を聞かれて即答できず
  パスポートの中の二つの名字にはおさまりきれない無数の私

  生き延びたシルヴィア・プラスは朝ごとに子に用意するしょっぱいミルク
  こわれた樋を落ちる雨音「あした晴? あしたのあしたは晴れ?」って響く
  夏の風稲城の丘より吹き下ろし保育園まで駆けて行きたし
  園庭に夕べは重くなる木の実 もぎとるように子を連れかえる
  先生のおめめに水がたまってる お別れは握手でバイバイバイ

 大田美和(おおた・みわ) 1963年、東京都生まれ。





★閑話休題・・・嵯峨直樹「痛ましいひかりが白くこもる雲 濡れた市街の真上に張って」(「美志」21号より)・・・


 江田浩司つながりで「美志」。本号の江田浩司「『注解するもの、翻訳するもの』を精読するために。(序章)-『詩の在りかを問う人、関口涼子」、連載?は、いつもながらの江田浩司の膂力を思わせる。約20ページに及ぶ論である。「それは最終的に『岡井隆考』(二〇一七年 北冬舎)の補記を形づくる論考になるだろう」と予言されている。ここでは、締めに近いところの関口涼子の言葉を孫引きしておこう。

  問いは、答えを求めることが目的なのではなく、
 問うことそのものが目的である場合があるからで
 す。そして、たとえば小説が、「世界とは何か」と
 しばしば問うているとすれば、詩は、問いそのもの、

  言葉そのものであるがゆえに、答えではなく、問
 うこと、そのものだからです。




撮影・鈴木純一「行く春や猫の茶碗に食べ残し」↑

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