「オルガン」21号(編集・宮本佳世乃、発行・鴇田智哉)の柱は二つ。特集Ⅰが、先般上梓された宮本佳世乃第2句集『三〇一号室』(港の人)、特集Ⅱは、これも先般上梓された浅沼璞第1句集『塗中録』(左右社)。特集1の論考は安里琉太「此方と彼方のさびしさ」、大塚凱「陸続きの部屋」、北野抜け芝「感動詞・抽象・野」。座談会に「宮本佳世乃句集『三〇一号室』を読んでみた」。メンバーは田島健一・鴇田智哉・福田若之・福地敦・松井亜衣。ここでは、宮本佳世乃「からすうり里の朝から母を逃がす」の句を巡っての論議ののちに、以下のように述べた件が、印象的であった。
田島 俳句を書くとき、いろいろとプロセスの違いはあるにしても、それは結局言葉を通して何かに行きついているということなんだと思います。行きついたものが何なのかということをもうちょっと見なければいけない。じゃないと、ただ言葉を組み合わせて、そこから選ぶだけの世界になっちゃう。「母」という言葉がどこに還っていくのかが大事になるだろうと思います。宮本さんはそこを明確には考えておらず、考えなくてもできているときは、できているんですね。
特集Ⅱの論考は、池田けい「浅沼璞『塗中録』読後感」、佐藤りえ「自由でしかいられない『塗中録』試論」、四ツ谷龍「笑窪を描く空――浅沼璞『塗中録』を読む」。その佐藤りえは、結びに、
連句人(レンキスト)は、—捌きは―ままならぬ連衆の勝手きままな付け合いを制し、歌仙を形作る。連衆は自由なようでいて、捌きの掌の上である。同時に捌きは己の制御できない外部脳を並列接続するようなものだ。自分の見たことのない景色が、歌が、色が、連衆によってもたらされる。その愉快さを知ってしまったら、もう不自由になど戻れないのかもしれない。自由でしかいられない人、それが浅沼璞の「主体」ではないか。
と述べている。また、教え子らしい池田けいは、
(前略)ことあるごとに攝津氏の名前を聞かされきた身としては、いかにその存在が先生のなかで大きいものかを再認識させられる。最後に、その脇起しを引用し、終わりとさせていただく。
菊月夜君はライトを守りけり 幸彦
かぼそく伸びる影の秋風 璞
ともあれ、本号より、「オルガン」同人の一人一句を挙げておきたい。
見えてゐるなかの言はないこゑがまだ 宮本佳世乃
祝日のはんぶん蜂を見てすごす 田島健一
人ひとりづつ陽炎に位置を占む 鴇田智哉
部屋にいて思えば暗い春の海 福田若之
撮影・鈴木純一「バーチャル飲み会ホドホドにここらで止めたがいい頃な」↑
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