今瀬剛一『芭蕉体験 去来抄をよむ』(角川書店)、本書は、今瀬剛一主宰誌「対岸」に、平成9年から平成12年1月号まで60回の連載されたものをまとめたもの。構成に苦心のあとがうかがえる。タイトルの次に、句(原文)が示され、〈作品・語句の解説〉〈この章の問題点〉、最後に〈現代俳句との関連〉が記され、ここには、具体的に、今瀬剛一が同時代を共有したであろう俳人の句が挙げられている。説明もよく行き届いている。例えば、
句ははるかにおとり侍る
(原文)
いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆 去来
去来曰、「猿みのは新風の始、時雨は此集の美目なるに、此句仕そこなひ侍る。たゞ、有明や片帆にうけて一時雨とはいはゞ、いそがしやも真帆も、その内にこもりて、句のはしりよく、心のねばりすくなからん」。先師曰、「沖の時雨といふも、叉一ふしにてよし。されど、句ははるかにおとり侍る」ㇳ也。
〈作品・語句の解説〉
・いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆・・・去来作。季語は「しぐれ」、「冬」。切れは上五、切れ字「や」。「猿蓑」所収の作品。(中略)
〈この章の問題点〉
いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆
有明や片帆にうけて一時雨
改めて初案と再案を比較してみよう。先ず「いそがしや」を「有明や」に直すことによって、作品の情景が明確になり、時間性も加わった。
初案の「いそがしや」という表現はどちらかというと傍観的である。しかも面白がっているところがある。去来はそのことに気がついて「有明や」に直したのだと思う。(中略)
さらに言えば「いそがしや」などという知的な表現は対象と正面から取り組んでいないという点において弱い。したがって作品が落ち着かない。作品自体を一種の説明にすぎないものとしてしまっている。そうした弱さに思い当たったのではないかと私は考える。(中略)
〈現代俳句との関連〉
先人たちの遺してくれた作品もまたすっきりとした作品、そしてその外から湧き出てくる情感豊かな作品ばかりである。
ピストルがプールの硬き面にひびき 山口誓子
風花のかかかりてあをき目刺買ふ 石原舟月
代馬の泥の鞭あと一二本 高野素十
例えばこれらの作品はどうであろう。一読内容が明快に伝わってくるのである。(中略)
これらの秀作に共通することは、表現を最小限度に抑えているということである。(中略)読者はその背景から湧き出る語らなかった内容を感じ取り、作者の感動を追体験するのである。去来の言う「句ははしりよく」という内容は、おそらくそうしたすっきりした表現を言ったものと思う。その反対が「心のねばり」ということであって、古今の作品を見てもそうした傾向の作品は全て残っていない。
と記されている。こうした、はっきりした物言いには、「はじめに」においても、著者自身の言葉として、俳句への現状認識と方途を述べていることにも表れている。以下に抄出する。
(前略)これは私も含めての話であるが、現代俳句はあまりにも痩せすぎていはしまいか。自分の本当の内部から出た言葉ではない言葉の遊び、没感動的な作品が横溢してはいないか。その原因はいろいろあろうが、私はその一つに芭蕉を忘れているということがあるのではないかと思っているのである。いまさら芭蕉でもあるまいという人がいるかもしれないが、いまだからこそ芭蕉が大切であるというのが私の考えなのである。
ともあれ、本書に挙げられた〈現代俳句との関連〉に引用された句のいくつかを以下に孫引きしておこう。
竹馬やいろはにほへとちりぢりに 久保田万太郎
ひらく書の第一課さくら濃かりけり 能村登四郎
咳をしても一人 尾崎放哉
少年の見遣るは少女鳥雲に 中村草田男
たましひのたとへば秋のほたるかな 飯田蛇笏
水洟や鼻の先だけ暮れ残る 芥川龍之介
有る程の菊投げ入れよ棺の中 夏目漱石
病む六人一寒燈を消すとき来 石田波郷
足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女
尿の出て身の存続す麦の秋 永田耕衣
きさらぎの尿瓶つめたく病みにけり 日野草城
今瀬剛一(いませ・ごういち) 昭和11年、茨城県生まれ。
撮影・鈴木純一「アヤメにも明るい面と暗い面」↑
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