2021年2月25日木曜日

攝津幸彦「表札を洗ふみどりの戦火かな」(「俳句界」3月号)より・・・



 「俳句界」3月号(文學の森)の特集は、「いま、評論を読みたい!」(五十嵐秀彦・復本一郎・坂本宮尾・外山一機・今泉康弘・愚生)と「耽美性俳句」(総論は、関悦史「五七五で世界の僭主になること」)、そして「発表 第22回山本健吉評論賞」(選者は井上泰至・小林貴子)がある。これに「佐高信の甘口でコンニチワ!-亀石倫子」などを加えると、今月号に限っていえば、愚生が、「いま、評論を読みたい!」に駄文を草しているのを差し引いても、他の俳句総合誌にはない魅力がある。紙幅もないので、「第22回山本健吉賞」の摂氏華氏「攝津幸彦論ー想像力の可能性をめぐって」を抄出して、紹介したい。まず、ペンネームからして面白い(本名を知られまいと韜晦している?)。華氏は、たぶん華氏451度、レイ・ブラッドリの小説名に由来しているだろう。紙の燃え始める温度である。攝津幸彦も読んでいた。「受賞の言葉」に記された略歴に、「1963年、石川県生まれ。句集に『花谺』(喜多昭夫名義)・・歌人にして主宰誌『つばさ』など」とあったので、記憶をたどって、「俳句空間」(弘栄堂書店版)の投句10句一括掲載が条件の「新鋭作品欄」に登場していた人だと思ったのだ。果して、第9号(1889・6)には、「青き兵士」10句(金沢市・26歳)があった。


  葉脈のごとき刺青よ八・一五       喜多昭夫
  日の丸をみづいろに塗る九月かな
  夏の野に青き兵士は烟るなり
  桃啜る義兄(あに)の美貌を恐れけり  (他6句略)
  

 これら若き日の彼の句からも、攝津幸彦の句や4句目「夏の野」に、芭蕉「夏草や兵どもが夢の跡」を淵源とする論がみえてくる。ともあれ、不十分を承知で、攝津幸彦論を以下に抄出する。


   送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)

 「万歳」はよく頭に「天皇陛下」をつけて用いられた言葉だ。出征式では見送られる人の氏名の頭につけて用いられた。(中略)この句がすぐれているのは、まがまがしい時代の記憶に縁取られた「万歳」に「夜も円舞曲(ワルツ)」を配したところだ。たいへん優雅な円舞曲は多くの死と無関係にきょうも流れ、そこに集まった人々を酔わせるのである。戦争のさなかにあっても生活はあり、庶民の困窮の対極には、特権階級の貴族的な遊興が繰り広げられていた。そこを鋭く突いている。


 あるいは、また、


  幾千代も散るは美し明日は三越

この句は、「今日は帝劇 明日は三越」を踏まえている。この広告文は明治四十四年に帝国劇場ができ、大正初年からプログラムを無料配布した。その中に入っていたものである。(中略)「幻景」は第二次世界大戦を戦後の視座に立って劇画的に再構築したものである。そのことを念頭に置くと「幾千代も散るは美し」の「幾千代」は「君が代」の一節「千代に八千代に」を連想させる。(中略)攝津は上五中七で戦死をあえて「美し」と反語的に捉え、下五に浮き立つような気分を配した。これは戦時中の高揚感を買い物に行くような地平にまで引き下ろしたものであり、痛烈な皮肉といえる。攝津は第二次世界大戦を戯画として描き、国家主義を低い目線から批判している。攝津は権力に対する反骨精神を持っていた。一見軽やかで表層的に見えるが、この句は時代の虚妄を突き刺す針を含んでいる。(中略)

  南国に死して御恩のみなみかぜ   (中略)

南風を御恩と呼ばなければならない悔しさと虚しさ。攝津は戦後生まれという距離感で、戦争の内実を極めてシニカルに捉えることに成功したのである。戦争体験者は、とてもこのような醒めた詠み方はできないにちがいない。体験しないことで、先入観なく白紙の眼差しで戦争を詠むことができたということはしっかりと押えておく必要がある。戦争体験者だけが戦争を語れるのではない。戦争を知らない世代だからこそ詠むことのできる戦争詠があるのだ。

 そして、最後は以下のように結ばれている。

 攝津幸彦は稀有なる言葉の反射神経で「私」から「非私」への往復運動を繰り返し言語世界を構築した。そこには体制を批判する毒が目立たないように仕込まれている。攝津幸彦の俳句を読むという行為は、まさにその毒を俳句もろとも味わうことにほかならない。
 
 その他、本論中の攝津幸彦の句を以下に少々挙げておこう。

   生き急ぐ馬のどのゆめも馬          幸彦
   戦場へ母校へ魚のやうにゆく
   大日本(おほやまと)墨は匂へる新歴史
   若ざくら濡れつつありぬ八紘(あめのした)
   きりぎりす不在ののちもうつむきぬ
   ひとみ元消化器なりし冬青空   



      撮影・鈴木純一「オオイヌノフグリにもあり花言葉」↑

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