川名大『戦争と俳句』(創風社出版)、副題に『富澤赤黄男戦中俳句日記』・「『支那事変六千句』を読み解く」とある。帯の表側の惹句には、
落日をゆく落日をゆく真赤(あか)い中隊 富澤赤黄男/ は、なぜ句集『天の狼』から漏れたのか。
捕虜を斬るキラリキラリと水光る 富澤赤黄男
敵の屍まだ痙攣す霧濃かり 熊谷茂茅 /なぜ、かくも冷徹な句が詠めたのか。
大盥(オスタッブ)・ベンデル・三鬼・地獄(ヘル)・横団 渡辺白泉 /あなたは、この句を読み解けますか。
とあり、また表紙裏帯には、
Ⅰ『富澤赤黄男戦中俳句日記』を読み解く
Ⅱ『富澤赤黄男戦中俳句日記』翻刻
Ⅲ「支那事変六千句」八十年目の真実ー皇軍へのバイアスと情報操作ー
富澤赤黄男俳句研究史の再先端を切り開く新資料『戦中俳句日記』の翻刻と読み解き。時局に同調した「支那事変六千句」の皇軍へのバイアスと情報操作の剔出。戦争と俳句にかかわるテクストを犀利に読み解いた画期的な一冊。
とあった。労作の全容をよく伝えていよう。研究者としての川名大の執念のようなものさえ感じる。興味を持たれた方は、是非、本著に直接当たられたい(本ブロブで紹介するには、困難ゆえ)。それでも一例は挙げておきたい。例えば、ブログタイトルにした「目つむれば虚空を赤き馬おどる」の句には、以下のように記されている。
(前略)第一章で引用した「武漢つひに陥つ」の中の、
めつむれば虚空を赤き馬おどる
の「赤き」を「黒き」と改変したのも、血みどろの馬のイメージが戦意高揚に悖るからであろう。逆に、冒頭で引用した「戛々とゆき戛々と征くばかり」の表記は「旗艦」(昭12・11)「戛々とゆき戛々とゆくばかり」の表記よりも戦意高揚にフィットするので、『天の狼』では「征く」の表記の句を収録したのである。
赤黄男と「戛々と」の句の表記と逆なのが、西東三鬼の、
兵隊が征くまつ黒い汽車に乗り
である。この句は「京大俳句」昭和十二年八月号に掲載されたもので、日中戦争(支那事変)勃発(昭12・7・7)直後に出征の光景を詠んだもの。三鬼はこの句を第一句集『旗』(昭15・3)へ収録するとき、
兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り
と「征く」の表記を「ゆく」へと改変した。真黒い汽車に乗って出征する兵隊のイメージが、彼らの未来の死を連想させるので、三鬼は弾圧を回避するために「ゆく」とすることで出征場面をカムフラージュしたのである。
愚生は、これらより他に、実は少しばかり気にかかったことがあった。それは使用されいる用語について、「前線俳句」「銃後俳句」という分類なのだが、確かに、その語がもたらす俳句の詠まれた環境を示すには、よく理解できるものがある。ただ、当時の「俳句研究」には、その用語はついに見られない(もっとも、愚生の手元にないだけなのかもしれないが)。 例えば、「俳句研究」(昭18・8)の座談会「戦争俳句その他」、出席者は渡邊白泉・中村草田男・佐々木有風・加藤楸邨・石橋辰之助には、「戦線俳句」、「想像戦線俳句」という言い方はある。また時代はさらに進んで「俳句研究」(昭17・10)の「大東亜戦争俳句集」には、「本書は大東亜戦争を記念する戦線俳句の第一輯であります」とあり、「前線俳句」という呼称は用いられていない。余談だが、この号には、「南方篇」「馬來方面」のなかに、「評論家 三木清(日)/風の吾も南に宣べんとす/註。文人部隊也。これは昭南島に入城せる時の作品」とあった。そして、昭和17年2月には、日本はシンガポールを占領したが、6月にはミッドウェー沖海戦で、米軍に敗北した。
また、愚生は以前から、ことあるごとに記しているのだが(だれも振り向いてくれていないが)、「俳句研究」(昭17・12)の「「大東亜戦争一周年を迎へて」の特集において、他の、詩人や多くの俳人が戦意高揚の句を寄せているのにもかかわらず、石田波郷のみが「一周年に当りて」と題した5句のなかに、唯一人、戦争讃歌を詠まず、
山行や群山氷るその一つ 石田波郷
石打つや鏘然と瀧涸れにけり
十二月鎌倉の海来て見ずや
霜に呵す茂吉光太郎亦老いず
霜柱俳句は切字響きけり
を掲載している。とりわけ、「霜柱俳句は切字は響きけり」の句のみが、人口に膾炙しているが、むしろ、世間の動向を無視したかのように、この句をこういう場面で発表すること自体が、すでに、国家や世間から、指弾の怖れがある状況だったことは、銘記されてよいと思う。石田波郷の気骨を見たとおもっていた。
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