杉浦圭祐第一句集『異地』(現代俳句協会)、装幀は、杉浦圭祐が熊野御燈祭の上り子仲間という中山銀士。愛情あふれる跋は宇多喜代子「二月六日の神火」。そのなかに、
(前略)杉浦圭祐さんが生地「熊野」を「異地」と感じているのも、どこにもない実の熊野と、概念の熊野との折合いの狭間での擦過傷のような思いであるのかもしれないのだ。この思いを理屈抜きに整合しているのが、上り手として手にする「神火」であるのだろう。おそらく二月六日の火には概念の熊野ならぬ実の熊野が満ちていて、満身でもってこの火に親和しているのだろうと思う。
もとより杉浦圭祐さんは器用に立ち回る性分でもないし、ハイクの巧さを追う性分でもない。だが、一端、俳句に縁を得たからには、今後も愚直に自分の思うところを是として精進していって欲しい。
とあった。また、著者「あとがき」には、
十八歳まで過ごした和歌山県新宮市へ二十二歳の時に戻ったのは、地元の先輩で作家の中上健次さん主宰の「熊野大学」に関わりたいと思ったことが理由のひとつだった。熊野大学とは、中上さんが中心となって一九九〇(平成二)年に発足した「建物もなく、入学試験もなく、卒業は死ぬ時」を合言葉に、熊野とは何かを問い続ける自主公開講座である。(中略)
新宮には中上さんの十九歳年上の親友である松根久雄という俳人がいた。(中略)
俳句部に誘われることがあまりにも多くなったことを不思議に思いつつ、句会に参加してみた。一九九四(平成六)年一月八日のことである。その日、講師として参加されていたのは宇多喜代子先生と松根久雄さんだった。
句会に参加してからというもの、一人暮らしだった松根さんは頻繁に私を自宅に呼び出し、ビールを飲みながら俳句のこと、熊野のこと、中上さんのことを話してくれた。(中略)その年の七月に当時の仕事の都合で大阪に転居した。(中略)
郷里を遠く離れてもことあるごとに熊野に帰った。松根さんに会うため、御燈祭に上るため、毎年八月開催の熊野大学夏期セミナーを手伝うため、そして家族の用事のため等々である。帰る目的はいろいろだったが、熊野に帰っても「帰省」という言葉を聞いて想起するようなどこか心安らぐというような気持ちは私にはなかった。熊野は「異郷」や「異境」などと言われることもあるが、私にとっては「異地」と呼ぶのが相応しい。私には熊野は今でもなお異地である。(中略)
『異地』には俳句と出会った一九九四(平成六)年から二〇一九(平成三十一)年四月まで、すなわち平成時代に作った句に限り三六五句を選んで収録した。この間、松根久雄さんは一九九八(平成十六)年十二月七日に七十一歳で、桂信子先生は二〇〇四(平成十六)年十二月十六日に八十九歳で逝去された。
とある。長い引用になってしまったが、愚生にはお会いしたこのないにも関わらず、松根久雄に対する尊敬の念が、なぜかあったのだ(確か書肆山田から句集が出ていたと思う)。新宮と聞けば、中上健次と松根久雄の名をなにかの折に思い出してもいたからである。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておきたい。
微震あり木の芽に水のゆきわたる 圭祐
他人とは自分のひとり残る雪
上り子は身元不明の白頭巾
春暮ぐつぐつ頼むでえ頼むでえ
神の火を怒れる者ら振り回す
背に移る上り子の火を叩き消す
太陽の塔の麓の法師蟬
蟷螂の両手一生鎌のまま
白日傘釦を押せば町のなか
綿虫よ地下街に来てどうするか
宵戎闇に烏の嗚咽せり
衣被雨ふらぬのに雨のおと
家のある者は家へと鰯雲
父母の存命中の桜かな
杉浦圭祐(すぎうら・けいすけ) 1968年 和歌山県新宮市生まれ。
撮影・芽夢野うのき「春隣めざめよ火の鳥水の鳥」↑
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