井口時男『金子兜太/俳句を生きた表現者』(藤原書店)、帯文には、黒田杏子さん推薦とあり、
「長寿者は幸いなるかな/最晩年の句友、文芸評論家/井口時男による兜太論」/没三年記念/過酷な戦場体験を原点として、前衛俳句の追求から、「衆」の世界へ、そして晩年にはアニミズムに軸足を据えた金子兜太の、生涯を貫いたものは何だったのか。戦後精神史に屹立する比類なき「存在者」の根源に迫る。
とある。著者「あとがき」の中に、
(前略)執筆に際しては、「外部」からの観点を大事にするよう努めた。私が俳句界の「内部」などまるで知らないせいでもあるが、案外これが本書の取得になっているかもしれない。
具体的には、ジャンルの特殊性(という名目)に閉じこもりがちな俳句を詩や短歌や小説といった文学全般のな中でとらえ、俳人・金子兜太の歩みを戦後表現史や戦後精神史の中に位置づけることである。それは造型俳句論で金子兜太自身が志向したことだったし、また、こういう「外部」の観点に耐えられる俳人は金子兜太ぐらいだろうとも思う。(中略)
私は以前、第一句集『天來の獨樂』に収めた短文で、「俳句が詩を羨望することの必然性と俳句が詩になることの不可能性とを、同時に知った」と書いた。それは前衛・富澤赤黄男についての感想だったが、加筆を終えたいま、同じことを思う。(中略)
金子兜太は俳句が「詩」になることの可能性と不可能性を、「社会性俳句」から「前衛俳句」へと遮二無二表現の高度化を推し進めた「往相」(ほぼ一九七〇年代前半まで)と、大衆的な平明さへと、また「原郷=幻郷」へと、還ろうとした「還相(げんそう)」(ほぼ一九七〇年代後半から)とに、振り分けて生きたのだ。しかも往相においても還相においても規格外の表現者として俳句を生きたのだ―と。
述べている。これまでの兜太評の書にはみられない、特質ある、いわば必読の書である、と言っていい。そして、何より、井口時男自身が、自身の俳句の歩く道を、次のように記しているのは、その出発が誰にでもある、慰藉としての文学(俳句)から、それを超えようとする宣明として、受け止めたいと思う。
なお、いわずもがなのことながら、私自身は実作において金子兜太のあとを追うものではない。金子兜太は唯一無二。あとを追ったって無駄だ。私自身は晩年の兜太の野太いユーモアを感嘆しつつ遠望しながら、いまむしろ、イロニー的屈折と間テクスト的重層性の可能性につきたいと思っている。
かつて、加藤郁乎は、芭蕉とは歩く道を異にすると言った。本書中には、引用したい炯眼、具眼の箇所がいくらでもあるが、それは、読者諸兄姉が直接当たられたい。ここでは、結びの場面を挙げておこう。
(前略)かくして、「太い人」「野の人」は「笑う人」なのであった。そして、この後、晩年に近づけば近づくほど、金子兜太は二者がただ出会うだけの、いわば「二物遭遇」の句を詠み始める。たとえば、
人間に狐ぶつかる春の谷 (『詩経國風』) (中略)
おおかみに蛍が一つ付いていた (『東国抄』)
人間と人間出会う初景色 (同)
山径の妊婦と出会う狐かな (『百年』) (中略)
これらの遭遇句には、かつての兜太なら腐心したであろう造型性への配慮は見られない。ただ無造作に二物の遭遇が報告されているばかりだ。兜太の造型論はイメージ論でもあったが、そのイメージは過重なまでの意味を担った意味喩であった。造型への配慮の放棄は意味という負荷からの自己解放である。
中でも最も世評の高いのは、読者が意味付けしやすい〈おおかみに蛍が一つ付いていた〉だろう。(中略)現に兜太の措辞はそっけなくて無造作で直截で、意味へと誘惑するそぶりがまるでない。狼に蛍はただ「付いていた」のだ。
意味は人間界のもの。生き物たちの関知するところではない。還相の兜太はこうして「非知」の心地よさへと着地したようだ。
井口時男(いぐち・ときお) 1953年、新潟県生まれ。
芽夢野うのき「一花複雑群れてさびしきイベリスよ」↑
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