「ふらんす堂通信」167(ふらんす堂)、特集は「大石悦子句集『百囀』を読む」、書きおろし特別寄稿に、藤本夕衣「魂との交感の言葉」と「『百囀』三十句抄出」。その結びに、
そして八十を過ぎた作者自身も、いつくるかわからぬ、けれど必ずくる自分の死と向き合う。
冬うらら遺言書くによき日なり
終活は鈴虫の甕捨ててから
あとがきに「書名とした『百囀』は多くの鳥の囀りのことで、大阪の郊外にあるわが家へ、四季をとおしてやってくる野鳥への親近の思いをこめて名づけました」とある。野鳥への親近は、すなわち死者への親近であろう。『百囀』は死者との魂の交感の言葉に満ちている。
とあった。その他、本誌にはひかれる連載が多い。例えば「競泳七句」、藤島秀憲「こわい俳句⑪」、岸本尚毅「虚子研究レポート㉚」、「小野あらたの毎日精進⑧」などだが、とりわけ、髙柳克弘「現代俳句ノート㊱ 山頭火」は、山頭火の俳句を論じて魅力的だ。例えば、
(前略) ちんぽこにも陽があたる夏草 昭和7年作
といったように体言止めの句がある。しかし、有季定型の体言止めとは異なって、「陽があたる」から「夏草」の名詞に移るという唐突感がつよい。(中略)「夏草にもちんぽこにも陽があたる」とでもすればわかりやすくはなるが、一気に魅力が減ってしまうのは明らかだろう。ちなみにこの句、唐突な語の運びに驚かされるが、句の情景はたいへんわかりやすい。野原で小便をしているのだ。じつはアヴァンギャルドな言語実験をしているのだが、意味や情景は受け取りやすくできている。詩としての高さと一般読者への親しみやすさを、両方兼ね備えているのが山頭火の俳句なのだ。
自由気まま、息を吐くように句を作ったといわれる山頭火であるが、じつのところさまざまに表現を工夫していたことは、もっと注目されてよい。
と述べるあたり、出色であろう。この後に続く「鉄鉢の中へも霰」(昭和7年作)をめぐって、山頭火がさまざまな表現を試みたことが記され、加えて、山頭火の他の句を解釈してみせる髙柳克弘の手際にも、愚生は脱帽する。そして彼は言う。
山頭火の人生の特殊性にこだわっていると、かえってその句が持つ主題や思想の豊潤さを見落としてしまう。たとえば「うしろ姿のしぐれてゆくか」は、自己表現に何よりも価値を置く個人主義の現代人にとって、一顧すべき思想を孕んでいるように思える。山頭火はまだ、堀りつくされていない。
「ふらんす堂通信」・・・、なかなかあなどれないよ・・。ともあれ、「こわい俳句」と「競泳七句」から一人一句を紹介しておきたい。
汗臭ふ貧しき友の呉れし金 日野草城
齢ばかり加へはるかや青邨忌 深見けん二
頬杖の杖の丈夫を去年今年 池田澄子
男の子初めて大き鮪を見 西村麒麟
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