「戛戛」第126号(詭激時代社・第3次詭激時代通巻第170号)、特集は 、「讃 池田澄子」「三橋敏雄生誕百年没後二十年記念」。「讃 池田澄子」には、讀賣文学賞受賞にまつわる各務麗至と池田澄子のいくつかの私信のやりとりが掲載され、文中に「久しい間、敬愛する『池田澄子」について私は何も書くことはしてこなかった。三橋敏雄を別にしても、五人に余るだろう論考や鑑賞を書いてきた記憶はあるが、『池田澄子』は書くことが出来なかった」とあり、想い出とともに、川上弘美の選評「『池田澄子という唯一無二の詩形が、ここに極まっている」を紹介し、句の引用がある。しかし、本号のメインは、偶然に、三橋敏雄の臨終に立ち会うことになった顛末とともに、その様子が、「風鑑抄」(「夢幻航海」47~49 平成十四年五~同十五年一月『たましいの聖櫃』改題)として、記され掲載されていること。その中から、全体の分量からすると、ほんの少しになるが、以下に引用しておきたい(原文は旧仮名正字)。
一歩入るなり、ベッドのかたはらで立ち竦んでしまつた。
嘘でせう。連絡もとらず、先生を驚かさうと思ひ立つて四国から出て来たのに。
嘘でせう。
おそるおそる両手でつつむやうにして握つた掌はあたたかだつた。
はじめて先生のお宅へ伺つた折、夕暮れ近くなつて瓜生坂から小田原の町まで下り、地理のおぼつかない私をその宿なら分かると送つていただきましたよね。(中略)
先生の声が聞きたくて、先生の文字が見たくて、電話も、手紙も、三回思ひ立つては三回思ひとどまり、もう三回の内のゐても立つてもゐられなくなるまで辛抱してたのに。
嘘でせう。どうして、ここに、麗至ひとりがゐることになるんです。(中略)
あの瓜生坂を、息を切らして・・・、あのうれしさつたらなかつたのに。先生に、やつと会へる、つて。
三橋敏雄の表札を嬉しさうに眺めながらチャイムを押すと、ブラインドの目の高さに隙
間が開き、各務さん、麗至さん・・・あなたつて。知つてゐたの。すぐ行つて。
その後は、何があつたのか、何が起こつてゐるのか、怖くて何も聞けませんでした。
奥様の妹さんが、間中病院間中病院。国道を左に行くとすぐ分かる。転ぶわよ、転ばないで。
奥様の声が、今も頭の中に谺してゐます。(中略)
奥様の知らせを受けて飛んで来て、私のゐることにも驚いたに違ひない。
「各務さん、知ってたの。聞いてゐたの。知る訳ないわいね。さうよね」
「池田さんと、電話で先生のこと話したことあるけれど、先生ますます元気で、と、いふ話ばかりで、まさかこんな」
「さうよね、急だから」
と視線が先生に向けられ、そのまま崩れるやうに取りすがり嗚咽してしまつた。
「先生、眠つてるけれど、聞こえてる筈だつて、先程親戚の人が」
「先生。先生、澄子です。聞こえる。聞こえる。頑張らう。頑張つて」
池田さんも、私も、心も声も壊れさうな限界まではりつめてゐる、その頂点にあつた。(中略)
先生の脈を執つてゐた医師は、やがてゆつくりとしたしぐさでポケットライトを出した。
先生の左右の瞳を照らした。先生の胸をはだけて聴診器を当てた。(中略)
白衣の医師は時計を確認した。
「七時五十分・・・」
その後の言葉は耳に入らなかつた。奥様が、信子さんが、遠山さんが、池田さんが、力が失せたやうに崩れた。・・・縋る以外なす術もなかつた。
やがて、その声にもならぬ慟哭を、奥様はどのやうに抑へられたのであらう。決然と衿を正された奥様はふかぶかと医師に頭を下げられた。(中略)
普遍といふ永遠といふ穏やかな尊厳を持した先生のお顔を拝し、かはるがはる末期の水を差し上げる。手はうちふるへ、心はわななき、誰ともしれない嗚咽はいつまでも続いてをさまらなかつた。(中略)
――先生。先生、いつたいどうなつてしまつたのです。昨夜帰られた儘、仰臥された儘、無言の先生なんてないでせう。来たい会ひたいと、やつと四国から出て来れたのに。こんなのないですよ。
さう思うふとまたこみあげて来るものがあつた。怺へきれずに、私は先生の書斎へ救ひを求めるやうにして逃げ込んでしまつたのだつた。(中略)
蓋しこの私が小田原を訪ふことがなかつたなら、先生の最期にも、果たして通夜や明日の告別式も知らぬまま間に合はなかつただらう。何故もつと、何故もつと頻繁に先生を訪ねなかつたのだらう。いくら煩がられてもいい、・・・。(中略)
明日は、高尾山薬王院貫主大山隆玄大僧正が来られるといふ。位牌には、大僧正による戒名『蒼天院眞観敏雄居士』とあつた。燈明が上がり香が焚かれた。(中略)
渦巻の香は朝まで持つから、やすむやうにと奥様はおつしやられた。先生と先生の水滴に矢立を前にして、私は、はいと頷いたものの眠れさうにもなかつたのであつた。
ひとつの部屋で先生と龍さんと私だけの通夜の夜が更けて行く。
渦巻だけではなく、私は二本づつ、香を朝まで継ぐつもりでゐる。四国でいふ夜伽の風習であつた。
そして、「あとがき」は、以下のように締めくくられている。
(前略)あの日、玄関先まで先生の柩を抱いて出た時だった。夫々が空を仰いだと思う。
池田さんの書信にあったのは・・・、あの日、暖かな青い澄んだ髙空の遥かを、式の始まる寸前、二羽の鳶が悠々と旋回し西へ向かって飛んでいった。
「敏雄と松雄よ」
松雄というのは、白馬の富沢みどりさんの夫君で、昨年の夏長逝していた。
先生を、高空で待っていたのだろう松雄と一緒に・・・。と、奥様は潤む声をあげて手を振られたのだった。
そうか、各務麗至も、小田原城のお堀端を通って、三橋家に向かう坂を登ったのか、愚生はただの2回ばかりだたったと思うが・・・。ともあれ、「讃 池田澄子」と「風鑑抄」よりいくつかの句を挙げておきたい。
赤飯を炊くたび疲れやすくなる 池田澄子
猫の子の抱き方プルトニウムの捨て方
大雑把に言えば猛暑や敗戦日
先生ありがとうございました冬日ひとつ
山に金太郎野に金次郎予は昼寝 三橋敏雄
芽夢野うのき「クリスマスローズ七つの顔を隠します」↑
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