後藤章『俳句空間の言語』(現代俳句協会)、序に相当する「まえがき」は堀田季何「後藤空間の言語」の中に、
いずれも珠玉にして問題作だ。例えば、『阿部完市とAIの言語空間について』は、数字の複素数平面とソシュールの言語学を背景に、阿部完市及びAIの言語空間を論じて話題作になった。複素数平面を基に、シニフィエ軸とシニフィアン軸からなる平面を想起し、第一象限を具象世界、第二象限を抽象世界、第三・第四象限を無意識の世界と位置付けた後藤独自の発想は、奇想のように思えるが、まさに理に適っている。しかも、この平面の応用範囲の応用範囲は広く、筆者は、この功績一つだけでも後藤の名は俳句史に残るべきだと思っている。(中略)
後藤の俳論は、どれもスケールが大きい。一般の俳論と言えば、特定の作家や作品を取り上げる者が多いが、内容的に作家ないし作品の時代を超えることはないし、作品以外の分野を持ち込むことも少ない。それに対し、後藤章の俳論は特定の作家や作品を取り上げたものでさえ、俳句以外の様々な分野(短歌、漢詩、物語といった横の分野だけでなく、文化論、数学、言語学まで及ぶ)や作家ないし作品の時代以外の歴史(古代から現代まで)も積極的に持ち込む。(中略)
それゆえ、本書『俳句空間の言語』は「後藤空間の言語」に言い換えられる。
他の、目次の項目をいくつかを示すと「二、痴呆俳句の構造ー草田男を巡って」、「三、日本語と俳句」、「六、俳句以外ー近代俳句の捨てたもの」、「七、篠原梵論」、「八、中景の発見」、「十、現れつつあるものー『風景』の変容について」、「十一、春愁の発見」、「十二、季語と自然(季語。遍路の成立をめぐって)」等である。また「あとがき」には、
ここに納めた評論は平成十四年から平成三十年までの間に現代俳句評論賞に応募したもの十三編を原文として、形式の違いによる変更や、間違った年代の訂正など一部変更をおこなったものです。(中略)
私はあまり俳句作品の鑑賞には興味がありませんでした。俳句という文芸の社会的意味をずーっと考えていたようです。世の俳句評論の多くは小さな範囲で深堀りされているだけとも感じます。もう少し俳句を考えるレンジを広げなければ、俳句評論は廃れてしまうのではないかと危惧の念を抱きます。
とあった。ともあれ、文中に引用された例句の幾つかを以下にあげておきたい。
暖夏の灯隈ストリッパーに臍深き 中村草田男
誰かまた銀河に溺るる一悲鳴 河原枇杷男
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 山口誓子
聞くうちに蝉は頭蓋の内に居る 篠原 梵
蟻の道まことしやかに曲りたる 阿波野青畝
うすうすとわが春愁に飢もあり 能村登四郎
遍路宿泥しぶきたる行燈かな 芝不器男
後藤章(ごとう・あきら)、1952年、仙台市生まれ。
★閑話休題・・春風亭昇吉「白秋の雲穿(う)ぐ右投げ左打ち」(プレバト・金秋戦・決勝戦より)・・
昨夜は、、TV・プレバト金秋戦2022決勝戦、お題は「大谷翔平」。われらが遊句会のメンバーの一人だった春風亭昇吉が、決勝戦初出場で、特待生5級の下位ながら、永世名人・名人十段などに交じって、見事、第3位に入った。慶賀!!夏井いつきからは、中句の「穿(う)ぐ」が難しいところで、「撃つ」くらいで良かったのでは・・という案が示されていた。
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