2016年8月1日月曜日

金子兜太「夏の山母いてわれを与太という」(『現代俳句の断想』より)・・・



安西篤『現代俳句の断想』(海程社)は著者の第三評論集、現俳句界で金子兜太をこれほどしゃぶりつくしている人はいないと思われるが、本著第一章は「金子兜太をしゃぶる」。第二章「個性像さまざま」の中に、阿部青草鞋、阿部完市があるのは嬉しい。また、第三章「俳句形式の問題を探る」のなかでは「俳句の音韻について」が、一時期の音韻論の流行?がきちんと整理されていて貴重。最後の「状況と個」では「俳句初心の頃」が俳句と遭遇した頃の、彼自身の出自が素直に語られている。戦後混乱のさなか自宅の蔵で見つけた祖母の俳誌のなかに臼田亜浪「心澄めば怒涛ぞ聞こゆ夏至の雨」に吸い寄せられたのだという。




兜太がらみでもう一つ「オルガン」6号を紹介しておきたい。
若い人たちの雑誌にしてはめずらしく金子兜太との座談会が掲載されているのだ(兜太も正直で、若い俳人たちを挑発している)。内容はこれまで兜太が語ってきたことに、ことさら新しいことが加えられているわけではないのだが、兜太流与太話はわかりやすい(にくめない)。例えば、高度経済成長期後のこと、

 テーマを持つなんてことを嫌うような主張も出てきた。俳句にテーマなんかない、と。もっと日常性を普通に書けばいいんだというようなのがはびこってきて、(中略)そこに鷹羽狩行のような食わせ物が出てきて、まったくしれーっとした顔で主張も何もない、まるで馬の屁みたいな男がね、馬の屁みたいな俳句を作ってそれでもてはやされるという現象があった。あの男にはいい感覚があった。だからニューヨークに行ったりするといい俳句を作る。何もかくあるべきだという考え方はないわけだよ。でも人間が表現するもので、その人間の覚悟とか信念がでてこないというものはさみしいですよ。

と語っている。もうひとつ、「オルガン」では座談会「視覚詩」があって、ゲストに小津夜景を加えて論じている。この方は少し高尚で、こちらは読者の方々に直接読んでもらいたい(愚生には手に余る・・)。
以下は「オルガン」6号から一人一句。

  日記にして親しき今日や明日も夏          生駒大祐
  目の向きと葵の向きとゆき違ふ           鴇田智哉
  うづくまる空に泰山木の花              宮本佳世乃
  まひの ここちで あおぐ ふうりん ひかりと かげ ふくだわかゆき



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