2016年8月28日日曜日

南方熊楠「ありがたき御世に樗の花盛り」(『ヴァーサス日本文化精神史』)・・・



坂口昌弘『ヴァ―サス日本文化精神史』(文學の森)は「俳句界」に二年半に渡って連載された稿をまとめた著である。「あとがき」には、

 今回の連載もヴァ―サス(VS)批評の形をを踏襲したが、対象は俳人に限定せず、詩歌文学精神、芸術精神、哲学思想、広い領域の精神を表現した人々の比較を試みた。ここでの精神とは、人生観、死生観、自然観といった観・見方・考え方である。文学の創作にかかわらず、人々は何らかの人生観を持ち、日々の行動・創作に無意識に影響を及ぼしているが、その精神を明らかにしようと試みた。

とある。〇〇VS〇〇となってはいるが、比較対象された人物のそれぞれが独立した像を結ぶようにも顕わされているので、日本文化精神史入門の書として読める。愚生のようなその道に詳しくない素人にもそれなりの理解が届くのがいい。
最後の章は「「白川静VS梅原猛」だが、愚生には白川静の与えた影響にくらべると、素人目にも梅原猛の比ではないように思える。それを証明するように、著者・坂口昌弘も本著のいたるところで白川静の考え方を参考に持ち出している。
各章VSは「釈迦VSイエス・キリスト」にはじまり、最終章の「白川静VS梅原猛」まで15対・30名に及ぶ。坂口昌弘の郷里は和歌山県だったように思うが(思い違いだったら失礼・・)、「南方熊楠VS釈迢空」は特に面白く読ませていただいた。その因縁を以下のように述べている。

「粘菌は生死の界を研究するには最も都合のよいもので、生物の生と死とは同じである」と、私の親族で博物研究者の坂口総一郎は熊楠から聞いた話を、大阪朝日新聞に「高野登山随行記」と題する文章に書いている。大正九年、坂口が熊楠に随行して高野山の管長に会う途中、高野山の植物・粘菌採集をした時に聞いた話である。坂口は昭和天皇の紀伊行幸の際に、和歌山県側の実行委員として宮内庁と交渉をし、また戦艦長門に泊まり込み天皇と食事をし、熊楠と共にご進講をしていた。熊楠は仲介役が介在することを嫌い、自分で交渉するといって聞かなかったという。坂口総一郎の生存中にもっと熊楠の話を聞いておけばよかったと、今は残念である。

進めて、さらに、

熊楠の思想において最も特徴的なものは「事」という考えである。(中略)詩歌においても、「物」の客観写生と「心」の主観写生・抒情・想像の対立を考えがちである。高濱虚子と河東碧梧桐の俳句観の対立においても、「物」と「心」の二面性において俳句精神史が語られてきた。しかしながら、言葉の表現においては「物」と「心」以外に、物と心が交わるところに「事」が生じていることに注目する必要がある。

と展開する。一方、釈迢空については、

白川が「口」という漢字は祝詞を入れるための器であったことを発見したように、迢空は文学の発生を「呪詞(じゅし)だと直観した。人から神に向けての言葉が「寿詞(よごと)」であり、神から人への言葉が「祝詞(のりと)」であった。その祝詞は海坂のかなたにある「常世(とこよ)」からもたらされたものであり、「まれびと」(=神=異人)が唱えた言葉であり、それが詩歌のルーツとなった。

と指摘している。その他、熊楠が、当時「エコロジー」という言葉を用いて、神社合祀令に対して反対運動を起こしたことなど、現代の地球規模の問題にもふれる認識を得ていたことなど興味深い。
ともあれ、坂口昌弘の思考のなかにタオイズム(道教・道家思想)が色濃くあることは、その他の章を読めばおのずと明らかなようにおもわれる。


                                    
                                                             センニンソウ↑

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