2019年2月10日日曜日

大本義幸「霜げたる癌緩和センターの男たち」(「北の句会報告」2019年2月・立春号より)・・



 「北の句会報告」VOL94・95・96合併号(編集・丸山巧)の巻末は「緊急追悼特集・大本義幸追善一句抄」である。中に、北村虻曵は「大本義幸の視ていたもの」というエッセイを寄せて、「豈」誌の作品下段にいつも「マスード様」、「マスード拝」が出てくるのに注目して、そのアフマド・シャー・マスードが、北村虻曵にとっても印象深い人物であり、「マスードはアフガニスタンのタジク人で、ソヴィエトの占領に反抗するゲリラとして多くの戦果を挙げ『パンジールの獅子』と呼ばれた」といい、2001年9月11日の米国同時多発テロの二日前に暗殺され、「暗殺者は彼の力を恐れるタリバーンなどに連なるのではないかと見られる」という。また、冨岡和秀は、「さらば地球よわれら雫す春の水」の句を挙げ、以下のように記している。

 ファキイルの俳句詩人・大本義幸、貧者の一灯と同質のものがあなたの元にあるだろう。地を這うように地上を遍歴し、聖痕を潜めしファキイルに春の水のごとき雫(すなわち涙)が落ちる。さらばファキ―ル!

 他にも大本義幸について多くの方々がしたため、その様子が語られているが、どれもこれも愛惜に満ちていた。ただ、なかでも愚生には。坪内稔典や攝津幸彦の「日時計」時代からの同志であった矢上新八のものに、とりわけ熱くなる思いをした。それはブログタイトルにした「霜げたる癌緩和センターの男たち」について書かれたものだ。

 (前略)掲句の「霜げたる」の意味が分からずに辞書を引いたのだが、「落ちぶれてみすぼらしい」と書かれているのを見て愕然とした。あのプライドの高い大本が、自らを霜げた男と自嘲している。彼はそれほどまでに弱り切っていたのであろうか。私は嗚咽を漏らしながら掲句を読み返していた。

 ともあれ、以下に追善一句として選ばれた大本義幸の句を挙げておきたい。カッコ内はその選著者名である。

  よくなるよ水泡(みなわ)のごとき春の嘘  大本義幸(北村虻曵)
  薄氷(うすらい)のなか眼をひらくのは蝶だ     (冨岡和秀)
  西瓜を齧る鯔がいた汽水の町            (泉 史)
  初夢や象が出てくる針の穴             (宗本智之)
  十月の鯨は夙によく笑う              (野間幸恵)
  密漁船待つ母子 海光眸を射る朝          (藤田踏靑)
  犬猫清持たざるは涼し通り雨           (井上せい子)
  硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ        (竹内順子)
  秋日とは永遠にものほし竿である         (谷川すみれ)
  くれるなら木沓がほしい水平線           (森本突張)
  われわれは我ではないぞ烏瓜           (木村オサム)
  初夢や象がでてゆく針の穴             (坂本綺羅)
  水に影それよりあわき四国かな           (波田野令)
  空箱のひとつに風花鬼は外             (浅井廣文)
  我が声は喃語以下なりこの冬は           (野口 裕)
  薄氷を踏んでいたると鳥翔てり           (島 一木)
  水を呑む罪過のごとく夕陽背に          (中山登美子) 
  霜げたる癌緩和センターの男たち          (矢上新八)
  くらがりへ少年流すあけぼの列車         (小林かんな)
  星きれい餓死という選択もある          (植松七風姿)
  硝子器に春の影さすような人            (岡田由季)
  骸花(はなむくろ)知らぬ女を抱きにけり      (宮本武史)
  河その名きれいに曲がる朝の邦           (丸山 功)
  風は国境を煽る砕けた虹は納屋にある        (堀本 吟) 
  【追悼句】ー両手で撫でる『硝子器に春の影みち』  樋口由紀子 
  【訃報連絡への返信あり】 (前略)「作品云々よりご当人の命運の方が圧倒的に在って、何かが言えなかった思い出が、いまも濃厚に在り続けています。」(後略)
                            石田柊馬
 巻末、後記らしい部分に、、

 句友大本義幸さんの逝去に伴って緊急追悼特集を企画したところ、それに応えて大勢の会友の皆さんが稿を寄せてくれました。超ジャンル、出入り自由の当北の句会にあって、このような形で各々の思いを結集できたことは、実に意味深い作家冥利に尽きる出来事ではなかったかと、改めて皆さんお礼申し上げます。

 とあった。思えば、愚生はこのブログを日日の間をあまり置かずに書くようになったのは、大本義幸の便りに、毎日見ています、励みになります・・とあったからだ。だから、愚生は、日日、オレはまだ元気で生きていますよ・・というメッセージのつもりでブログをアップし、何かにかこつけては、大本義幸の名をその文中に刻んだように思う。攝津幸彦を仁平勝、筑紫磐井、酒巻英一郎と病室に見舞ったとき、エレベーター前で点滴の管をぶら下げたまま、手を振って別れたが、晴天の霹靂ごとく、三日後に亡くなった。それと全く同じシーンが、豊中の病院において、妹尾健と堀本吟と久仁郷由美子とで見舞ったときに生じた。余命を4,5か月と聞かされていた愚生は、これで永の別れか、と覚悟したのだったが、その後、手術で声を失ったものの、それまで以上に彼は俳句を書いた。そして、せめて彼が生きたいと言っていた60歳を超え、70歳も越えてみせた。今度の肺癌も必ず克服するだろうとおもっていたが、さすがに抗がん剤治療による副作用を嘆いていた様子があった。大本さん・・先日、高橋龍さんがそちらに逝ったよ。龍さんには、


      龍天に青枯れの葉を玩味するか    恒行

をおくったが、大本さんにはいまだに追悼句を書けないでいる。

大本義幸(おおもと・よしゆき) 1945年5月11日~2018年10月18日 享年73。



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