2019年2月20日水曜日

齋藤愼爾「狐火に読みしは常陸風土記のみ」(『逸脱する批評』より)・・・



 齋藤愼爾『逸脱する批評(クリティーク)ー寺山修司・埴谷雄高・中井英夫・吉本隆明たちの傍らで』(コールサック社)、解説は鈴木比佐雄「作家たちと根源的(ラディカル)な対話を試みる人」。その結びに、  


 齋藤氏の解説は、いつのまにか『逸脱する批評(クリティーク)』となって、言葉を駆使する作家たちの人間存在の在りかを深く詰問してくる。そして言葉に囚われた作家たちが逸脱する宿命や、人間への哀感を見詰めて新しい言葉の可能性を読者に誘ってくれる。齋藤氏はその意味で時代の中でも次の時代を透視しようとする作家たちの言葉の関係を根源的(ラディカル)に対話し続けている。その熱量の強さがこの『逸脱する批評(クリティーク)に』に宿っていて稀有な批評の地平を創り上げている。 

 と述べている。愚生にとっての齋藤愼爾は深夜叢書社の本を注文して店頭に並べる、愚生が本屋の店員だった時代にさかのぼる。約45年も前のことだ。推測するに齋藤愼爾がじつに奮闘し苦労を重ねていた時期だったと思う。月末には直接注文のための電話をしても出ない。でも、時代の尖端をつく書物は売りたかった。時代の先を走っていた五木寛之も埴谷雄高も中井英夫も吉本隆明だって、その後のようには売れてはいない時代のことだ。その間に混じって、マイナーポエットと思われていたが必読と思われた句集も出版されていた。
 愚生は、書店員の特権で、給料日清算の伝票買いが出来たので、安かった給料のほとんどを前借のようにして買ったこともあった。とくに深夜叢書社から出る句集はことごとく買った。齋藤愼爾句集『夏の扉』もその一冊だった。
 本書のなかでは,『俳句殺人事件 巻頭句の女』(光文社)であったろうか、

 この文庫にはユニークな仕掛け(トリック)がある。偶数ページ下段に横組みで夏目漱石から対馬康子、黛まどかまでの「現代俳句」が象嵌(ぞうがん)されている。読者は推理小説の珠玉を読了したあと、もう一度、名句未読の愉悦にひたれる。「推理小説」プラス「現代名句辞典」。それが本書だ。これは絶対に買いである。是非とも座右に置いていただきたい。

 とあるが、ながらく座右に置いていた文庫も先年の断捨離で、いま手元にない。が、愚生の記憶では、句が記載されていたのは本の柱だったように思うが、本書では「偶数ページ下段」と書かれているので、愚生の記憶違いなのだろう。そして、ブログタイトルに挙げた齋藤愼爾の「狐火に」の句が、寺山俳句の〈模倣(ミミイク)〉した例というなら、愚生もまさにそうした句で、その文庫のぺージに象嵌されていた句は、

  春愁の血は眠れずに佇っている     大井恒行  

 だったと思う。当時の寺山修司は、いまだ俳壇に受け入れられず、寺山修司の俳句が好きだ、と俳人のだれかに言おうものなら、白眼視されてさえいた頃だ。
 本書「寺山節考」(1)には、

 私は何度も寺山はつに逢っている。著作権料や印税の支払いに訪ねている。だから高取、小川、田中氏の三人の描く「はつ」像が正確だと首肯する。

 とある。愚生は一度だけ寺山はつに会ったことがある。澤好摩から引き継いだ「俳句空間」第6号の寺山修司特集のために、たしか八王子だったか高尾だったかの自宅を訪ねた。当時、新書館で、寺山修司の本を多く出していた編集者の方が、親切に同行して下さった。たぶん、愚生のような素人では門前払いが関の山だと思われたのだろう。通俗的にいうと寺山はつは、実に著作権についてはうるさかったのだ(NHKはいくらで、某紙はこれこれだと等々・・・)。それでもその人の口添えもあって、相応の著作権料で合意をし、「三橋敏雄選・寺山修司100句選」が実現した。それは「俳句空間」が新装の銘を打って(新装刊・・)、取次店を通しての全国書店委託発売を実現した再出発の号だった。
 そして思う。深夜叢書社の仕事もすごかったが、その後、彼が朝日グラフや朝日文庫、あるいは三一書房の「俳句の現在」シリーズなどの仕事が、もし、なかったとしたら、現在の俳句のシーンは、まったく別のものになっていたか、無かったと思う。
 ただ一冊、愚生の手元に残っている一冊、齊藤愼爾が解題を書いた『寺山修司の俳句入門』(光文社)は、「俳句航海記」として、齋藤愼爾が、「俳句とは何か」、つまり、「1 定型、季題、季語」、「Ⅱ 一句一章、二句一章」、「Ⅲ 切れ字について」等々を忍び込ませている。この入門書「寺山修司百句」から以下に少し挙げておこう。

  目つむりいても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹    修司
  ラグビーの頬傷ほてる海見ては
  流すべき流灯われの胸照らす
  花売車どこへ押せども母貧し
  父を嗅ぐ書斎に犀(さい)を幻想し

齋藤愼爾(さいとう・しんじ) 1939年、京城府(現・韓国ソウル市)生まれ。



★閑話休題・・木下利玄「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置の確かさ」(清野恵理子著『咲き定まりて』より)・・・


 『逸脱する批評』のなかに、齊藤愼爾『スポーツ小説名作集 時よとまれ、君は美しい』解説があり、その中の三島由紀夫「剣」つながりであげるのだが、清野恵理子著『咲き定まりて』(集英社・税別2400円)は、市川雷蔵の全出演映画、エピソードをふんだんな画像とともに描出した大冊である。それには、1963年「新潮」10月号に三島由紀夫が発表した短編小説「剣」について、市川雷蔵が、その映画化を強く望んでいたことも書かれている。話は飛ぶが,本著の「あとがき」に、仁平勝の「貴重なアドバイスを頂戴し」とあって、そういえば、仁平勝は映画フリークでもあったな、と思い出したのだ。
 また、本書の見返しに速水御舟の「墨牡丹」とは,いかにも雷蔵らしいように思えた。愚生は別にして、雷蔵ファンなら、手元に置きたい一書にちがいない。
 因みに、映画『剣』(三隅研次監督、舟橋和郎脚本)は、同書によると、小説発表後、わずか半年後の1964年3月14日に封切られている。小説の書評で「『剣』の主人公の国分次郎は三島氏自身を思わせる」と記したのは石原慎太郎だった。
 

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