2019年10月12日土曜日

渡邊白泉「折るふねは白い大きな紙のふね」(「俳壇」9月号より)・・



 「俳壇」9月号(本阿弥書店)の巻頭エッセイは水野真由美「白泉の猫について行く」だ。水野真由美は、三十数年前に渡辺白泉の「猫しろく秋の真ん中からそれる」という句に出会い、ブログタイトルに挙げた「折るふねは白い大きな紙のふね」の句を見つけた。そして「夏の海水兵ひとり紛失す」の句には、

(前略)死が日常となる非日常を普通の言葉で詩につかまえる。こんな表現が出来る方法を俳句は持っているのかと驚いた。気が付けば猫はずいぶん遠くまで連れて来てくれたのだ。〈俘虜若し海色の瞳に海を見つ〉〈日の丸のはたを一枚海にやる〉もある。
 
 と記している。今年は白泉没後五十年だという。本誌本号には、他に、「俳壇時評」で現在、もっとも辛らつに批評の筆を振るっていると思われる松下カロ「俳句における♯MeToo/ミートゥハッシュタグ」が目についた。一句一句の読みが引き出す評ではないが、俳句(俳句に限らず)が現在もなお、根強く抱え込んでいる句の鑑賞のありように及んでいる。

 作品は性別によって分かたれるべきではない。これは鑑賞の機微に女らしさや男らしさの魅力が加味されること以前の問題である。
 性差やテーマばかりではない。俳句に留まらず、様々な創作行為は作家の所属組織によって、師によって、国籍、人種、キャリアによって区別されてはならない。鑑賞者は「そんな意識はない」と言いつつ、それを犯している。
 あらゆる一句は等価である。これが侵犯される時、わたしたちは女性男性を問わず〈MeToo〉と声を挙げねばならないのだ。

 と、するどく指摘している。また「俳壇」10月号では、先般亡くなった、愚生と同じ歳の加藤典洋(享年71)について「俳句ゴジラ論ー加藤典洋の批評世界」と題して書いている。その結びには、

 ゴジラと俳句の自己転換の巧みさは、滅びないことを至上命題とする強固な存続志向においても共通している。
  ゴジラの意味は単一ではない。
      (加藤典洋『さよううなら、ゴジラたち』)
 晩年、加藤は新しいゴジラ像を模索した。愛されるキャラとして定着していたゴジラだが、東日本大震災と原子力発電所の爆発事故を契機に再び変わり始める。映画『シン・ゴジラ』(二〇一六)など近年のゴジラは核の脅威に加えて紛争やテロの恐怖を体現し、その被害者、敗者の絶望や怒りとも同義であるという。気掛かりな変化だが、時代と共棲する限り事物は一つの状態に留まることができない。ゴジラも、俳句もまたそうである。

 と述べている。愚生は、久しぶりに思い出した。かつて、攝津幸彦がまだ健在だったころ、「豈」の同人の幾人かで集まったときに、誰かが「時代とは寝ない」とつぶやいたことを。滅びるものは滅びるしかない。愚生も、他の同人も若かった頃のことだ。今や、思うまでもなく確実に滅びつつある。
 もう一つ同号の特別寄稿・川名大「富澤赤黄男戦中日記(三)」より。孫引きだが、赤黄男の句を二・三挙げておきたい。

  切株は じいんじいんと ひびくなり   赤黄男
  流木よ せめて南をむいて流れよ     



撮影・葛城綾呂 渾身の毛づくろい ↑

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