2020年2月6日木曜日

堺谷真人「心臓が無くて傀儡の秋思かな」(「一粒」第92号)・・・



 「一粒」92号(一粒俳句会)の特集は「俳句と神話」、湖内成一・堺谷真人・鈴木達文が筆をとっているが、「豈」同人でもある堺谷真人「俳句の神話ー『翁』をめぐって』は、小見出しに「神話の多義性」「芭蕉の実年齢と『翁』イメージ」「若くして『翁』となった芭蕉」「詩歌史における『翁』の先駆形態」「神話的表象としての『翁』」「結びに代えて」とあり、本格的な論考である。その中から、興味ある視点が記してある部分を引用紹介したい。

 ■芭蕉の実年齢と「翁」イメージ
 (前略)一八〇六年のこと、朝廷は「古池や蛙飛こむ水のをと」の句に因んで芭蕉に「飛音明神」の神号を賜った。下って一八八五年、明治政府は神道芭蕉派と称する宗教団体「古池教会」を認可している。後年、正岡子規が月並宗匠と呼ぶことになる旧派の俳人たちが芭蕉を神聖視した、神格化したというのは決して誇張や譬喩などではない。社会的実質を伴ったものだったのである。 

■詩歌史における「翁」の先駆形態
 ところで、季吟撰の『武蔵曲』序文は二つのことを端無くも示唆している。
 一つは俳諧精神の故郷としての老荘思想への傾倒である。(中略)「逍遥遊のおきな」というのは、超俗と自由を希求する俳諧精神の擬人化に他ならない。ここで注目すべきは「此しまは世界のまんなかなれば」の一節であろう。
  南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽と為し、中央の帝を渾沌と為す。(中略)分別智未成以前の生けるカオスを象徴する渾沌は、まさしく「中央=世界のまんなか」に位置する存在なのであった。季吟が「あまりにも上手過るをさらへり」と書くとき、それは滑稽ひいては俳諧が必要とするカオスへの志向と作為・技巧に惑溺することへの鑑戒をふたつながら含意しているのかもしれない。
(中略)二つ目は、 文学論が「翁」との問答体を借りる点である。(中略)ここにおいて『筑波問答』の「翁」は漂泊をその本然的存在様態とする何者かであること、反復来訪するマレビトであることが明らかにされる。

■そのそも能楽において「翁」は別格の特別なそんざいである。だが、禅竹は大胆にも宇宙の根源にこの「翁」を措定してしまった。そして、住吉大明神、春日大明神、諏訪大明神などの諸仏神、祖師、人麻呂、業平、秦河勝から末は一座の棟梁に至るまで、すべてを「翁」の本体、化現もしくは死者であると主張するのである。

■結びに代えて
以上、芭蕉のイメージとしての「翁」、連歌伝承における「翁」、そして能楽において神格化された「翁」についても概観してみた。結果、改めて感じたのは、生前も死後も「翁」と呼ばれたことが、芭蕉が俳諧連歌の神々の系譜に連なる上で決定的なアドバンテージを与えたということである。能面が表象する「翁」と「白髪白鬚」の老人に描かれる芭蕉。両者は神話的表象の世界で近接あるいは部分的に融合し、漂泊する神、智慧をもたらすマレビトという性格を帯びるに至ったのではないか。

 ともあれ、本集より、一人一句を以下に挙げておこう。

  多角形のパスタゆがいて秋ですよ      湖内成一
  小春日やどこかでガラス割れる音      鈴木達文
  糸電話くぐもることも秋の声        堺谷真人
  乳母車囲いて昏るる雪螢         中井不二男
  痒き部位痛き部位あり霧の日々       中村鈍石
  釣り具肩に秋風を切るオートバイ      牛島海平



撮影・鈴木純一 春の缶詰 ↑

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