2016年6月6日月曜日
坂間恒子「現代俳句雑感」(『現代俳句を探る』遊牧社)・・・
『現代俳句を探る』遊牧社は、「遊牧」100号を記念して「遊牧」に掲載された「好句をさぐる」「遊牧の一句」「遠交近交」「現代俳句雑感」などをまとめて刊行した一本である。
おおよその現在の俳句の在り様が伺える好著であり、「遊牧」が「海程」同人を多く抱えていることもあって、金子兜太にならうように俳句状況に竿さしている様がよくわかる。
ここでは、「豈」同人でもある坂間恒子を贔屓して、彼女の「現代俳句雑感」を紹介することにした。
まず〈1〉の「言葉の向うに」では飯島晴子の句をあげ、〈2〉では攝津幸彦の句を取り上げ、結論たる〈3〉では「実践批評」として桑原武夫「第二芸術ー俳句について」やリチャーズの「実践批評」に筆を伸ばしている。いわば現代俳句の可能性を追及してしているさまを考察しているのだ。飯島晴子については以下のようにまとめている。
現代俳句の可能性を求め、新しい境地を開いっていった晴子。読み手に正解を与えない俳句は、読み手のなかに「読み」の行方が委ねられる。そこには、俳句自身の厳しい自立があり、読み手にも俳句的因果律による「読み」の甘さを許さない自立を要求してくる。
白き蛾のゐる一隅へときどきゆく 『蕨手』
何のために、どんな方法で、なんて何の意味もない。
ところで、「遊牧」代表の塩野谷仁は「序に代えて」で、自らの目指すところ、つまるところ「遊牧」の同人が目指すべきところを「俳句」(平成25年4月号)のアンケートに答えた4項目「俳人100名言」から引いて示している。
その中でも俳句形式にとって大事と思われた部分を以下に紹介する。
②「俳句とは何か、五七調の最短定型詩です」(中略)つまりは、俳句とは、五・七・五字音を基本にする詩形式であるとのことだが、思いの丈は「詩形式」に傾けて受け止めて来た。俳句と言えど「詩」がなければならないとも思いである。
この「詩」とは何か。その中味の核は「叙情」と勝手に解釈している。つまり「存在の純粋衝動に裏打ちされた詩の本質としての抒情」すなわち「存在のかなしさに根ざした衝動」で、そこに「叙情」の根があると思っている。
以下、「遊牧の一句」から、
唇のしずかな水位羊歯ひらく 清水 伶
みちのくや時雨の芯も放射能 みちのくたろう
一本の独活見てからの無数の独活 大畑 等
龍の玉泣くなといわれ泣いている 松本梨麻
母の日の母筋トレをしておりぬ 相川玖美子
ここからは記紀以後の闇金木犀 塩野谷仁
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