「垂人(たると)」第35号(編集発行、中西ひろ美・広瀬ちえみ)、俳句、川柳、短歌、詩、連歌、エッセイ、吟行記など、何でもそろっているが、そう分かりやすい雑誌ではない。今号では、広瀬ちえみ「こんな本あります⑨・別役実童話集『おさかなの手紙』も、中西ひろ美「樋口由紀子のゆうぐれ・最新句集『めるくまーる』(ふらんす堂)より」も、中内火星の詩「にっこり笑う」も、野口裕は、俳句・短歌・詩も面白く読ませてもらったが、とりわけ、鈴木純一「武蔵國一之宮(LOTUS・垂人合同吟行)の記事を面白く読んだ。愚生の耄碌したアタマではいくつか引用しても、その醍醐味は読者には、とうてい伝わらないだろう。直接、本誌にあたっていただくしかない。ここでは、LOTUS派(純一は自らを日和見派と記しているが)の一人一句のみを以下に挙げておこう。
もとほるや
かのあきかぜと
ともあるく 酒巻英一郎
水涸れて生気抜かれて豹と熊 井東 泉
神池の外様の亀に秋の日箭 上田 玄
奥社(ヤシロ)奥の鎮守の出雲族 松本光雄
本号では作品下段に唯一、ミニエッセイを入れている坂間恒子が、先般、亡くなった佐藤榮市との思い出を語っている「月光の待合室の句会かな」恒子。ともあれ、垂人派の一人一句を以下に・・・。
迦陵頻の天冠の色石蕗の花 坂間恒子
会釈してまた晩秋とすれ違う 髙橋かづき
綿虫や四五人みえてゐてひとり 川村研治
人恋しまでは読めたが雪の句碑 中西ひろ美
小鳥来て古楽の木の実啄むや 渡辺信明
一本一本(ひとつづつ)管が外れて日脚伸ぶ 鈴木純一
鬣の痕なき老ひや曼珠沙華 ますだかも
ほんとうに死んだことにする取り囲み 広瀬ちえみ
惨状のコンビニの棚サラダ油のみ 野口 裕
★閑話休題・・今泉康弘「川柳的な、あまりに川柳的なー川柳との違いについての試論ー」(「蝶」連載)・・
「蝶」235号では、昨年開催された42周年蝶俳句大会の記事で多くが費やされている。「青玄」の伊丹三樹彦の盟友であった「蝶」前代表のたむらちせい(現・顧問)は、肝硬変で入院し、老人ホームに入所しているとあったが、さすがに健在である。
豆ごはん愛の言葉は無尽蔵 ちせい(「蝶」235号)
見舞いの子老し手を撫ぜながら聞く「死ぬの?」
ぐちよぐちよに潰し何ぢやこれや奇怪なおせち (236号)
現在「蝶」の代表は「円錐」同人でもある味元昭次である。
反核の鵙護憲派の団子虫 昭次
「蝶」大会のテーマは「俳句と川柳」。浜田妙「味元昭次108句に寄せて」の結びには以下のように書かれていた。
「川柳の持つ批評性、笑い、野放図、とりわけ・・・毒・・・そんなものから吹いてくる風は、淀んで濁った俳句の世界にいささかの清々しさを運んで来てくれるのではないか」と。
で、その「川柳的な・・・」の今泉康弘の連載だが、小見出し「現代川柳の分析とまとめ」(「蝶」236号)では、以下のように述べている。
(前略)ぼくの思うに、映像性を回避することは、川柳の本質なのである。なぜなら、映像性を持つと、俳句に近づいてしまうからである。(中略)
かつ、川柳作家たちは川柳独自のものを求めてきた。人生論であり、謎解きであり、隠喩性である。このうち、謎解き性は時事川柳が担当している。なお、川柳作品に隠喩の使われている時、その隠喩が一見したところでは何を意味するか理解しにくいことがある。そのとき、隠喩は謎として機能する。隠喩を理解することは謎解きになる。現代川柳の最左翼の作家は、きわめて難解な隠喩を駆使している。
本論中に、川上三太郎は「どこまでが俳句か、俳句の方で決めてくれ、それ以外は全部川柳でもらおう」と言ったとある。では、俳人も言うしかないだろう、「どこまでが川柳か川柳の方で決めてくれ、それ以外は全部俳句でもらおう」。
天界へ徒歩で行けますBAR「マリア」 きゅういち(2018「晴」1号)
空腹でなければ秋とわからない 樋口由紀子(2018『めりゅくまーる』)
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