照井翠エッセイ集『釜石の風』(コールサック社)、帯文の黒田杏子は、
『龍宮』は一世風靡。この句集の誕生にかかわった私は、照井翠という俳人がこの際文章修業をしてゆかれたら、〈鬼に金棒〉の存在になれると思った。同人制なし。全員平等の私たちの俳誌「藍生(あおい)」に、会員でないこの人に、無償で毎月一頁を提供することを決め、直ちに連載がスタート。今日にいたっている。この連載を一つの柱として、エッセイ集が出る。ささやかな俳誌を28年余り刊行し続けてきた私と「藍生」の連衆にとって、これは誇らしいことである。照井さんの文運を祈ってやまない。
と記している。照井翠は3.11のとき、釜石高校の教員で、生徒らとともに避難所生活を送った。被災三年目にはこう書いている。
いわゆる「震災遺構」のなかで、津波による犠牲者がもっとも多いのが、この鵜住居地区防災センターである。
冒頭で私は述べた。私達は三月を愛さないし、三月もまた私達を愛さないと。悲しみは薄まらないし、心の傷も癒えないと。廃墟となった鵜住居の津波砂漠を歩いていると、、心がずたずたに引き裂かれる。三年目にして深まる喪失感と絶望感に打ちのめされる。
三・一一神はゐないかとても小さい 翠
(「藍生」2014年3月号)
また、「釜石 盆風景」では、
(前略)去年のお盆は釜石で過ごした。町中心部のお寺では、お墓が山の斜面をびっしりと埋め尽くす。遥か頂のお墓を仰いでいると、蜩(ひぐらし)のシャワーが降り注いできた。(中略)
とっぷりと暮れた頃、甲子(かっし)川に架かる大渡(おおわたり)橋の上で数人の僧侶による読経が響き始める。
川面にはたくさんの灯籠が浮かび、読経を合図に川岸を離れていく。
集まった人々は皆、一心に掌を合わせている。盆の川は水量が少ないせいか。灯籠はなかなか流れようとはしない。
流灯を促す竿の撓(しな)ひをり 翠 (後略)
(2014年8月14日 河北新報)
そういえば愚生は、震災の翌年に釜石を訪ねた。それは、写真家の橋本照嵩が釜石の出身で、震災後、毎月といわず、何かといえば郷里釜石に帰って写真を撮り続けていたのだ。彼に「大井さん、何でもいいから一度釜石に来て、災後を見ていってよ・・」と言われ、いつも曖昧に返事をしていたのだ。ただ、たまたま、その翌年、皆が勝手に旅をして、十人くらいで、○月○日に、仙台の○○に集まって句会を開くという案内状をもらい、大人の休日倶楽部を利用して、秋田から仙台に出た時、約束の日時より一日早く着いてしまった。もともと、行き当たりばったり、宿も決めていない旅だったので、そこから向かうともなく、釜石に入って行った。まだ線路は全部開通しておらず、途中は代替えバスが走っていた。橋本照嵩から、釜石では、港に、大渡橋までは行ってよ・・ということだけを覚えていたので、これもいい加減に港を目指してひたすら歩いたのだった。
その時、現場で目にした光景は、写生派ではない愚生には、ついに現在まで句に出来ていない。
本書の中には、国際シンポジウムの基調講演「沈黙の詩(うた)、俳句ー東日本大震災を詠むー」(於:岩手大学、2014年12月20日)も収載されている。著者「あとがき」には、
いつの日か、釜石から、新たな「風」を吹かせたいと願っていました。/釜石で東日本大震災に遭遇し、そのまま避難所生活に突入した日から。/私の愛する人たちが、避難所を襲う余震に悲鳴をあげ、怯え、涙を流す姿を見たあの日から。/私の愛する人たちが、大切な家族や家を地震と津波で喪い、立ち直れなくなったあの日から。/私の愛する人達が、極度のショックにより、闇の世界に閉じこもってしまったあの日から。/私の愛する人たちが、浜に戻ることを断念し、一家で内陸の町へ移住そていったあの日から。/私は、いつか必ず、釜石から新たな「風」を吹かせ、未来を拓いていきたいと願っていました。(後略)
と記している。照井翠は、満身創痍でも、そう願い、生きている、と思う。タブに・・・。胸は熱い。
喪へばうしなふほどに降る雪よ 翠
つばくらめ日に日に死臭濃くなりぬ
青山背(やませ)木に生(な)るやうに逝きし人
亡き娘らの真夜来て遊ぶ雛まつり
別々に流されて逢ふ天の川
秋濤(しゅうとう)へ血を乳のごと与へをり
降りつづくこの白雪も泥なりき
青鬼が五月雨(さみだれ)の戸に立尽す
照井翠(てるい・みどり) 1962年岩手県花巻市生まれ。
★閑話休題・・文学に見る震災資料「語り継ぐいのちの俳句」展 高野ムツオ(俳人)×佐々木隆二(写真家) 於:ゆいの森あらかわ・・・
本日、「ゆいの森あらかわ」で開催中(3月1日~3月27日・入場無料)に出かけた。
他にも仙台文学館(~3月27日)、日本現代詩歌文学館(~3月31日)、コラッセふくしま5階(~3月15日)でも同時開催されているという。
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