2019年3月21日木曜日
木割大雄「ハモニカの老人・さくら・車椅子」(「カバトまんだら通信」第41号)・・
「カバトまんだら通信」第41号(カバトまんだら企画)、木割大雄の個人誌(赤尾兜子に関する事項と木割大雄作品の掲載のみ)のように見えるが、編集人に榎本匡晃・藤井弥江(みやず)の名が奥付にあるので、発行のための協力者であるにちがいない。木割大雄は、本誌において、ずっと赤尾兜子の公私について書き続けてきた。これほど赤尾兜子の公私を書き上げて来た人はいない。そして、それにはいつも師に対する深い尊愛がある。
今号は木割大雄「-兜子への旅ー〈冬の壁〉から〈広場〉」である。兜子の有名な句「広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み」をめぐるエッセイで、
兜子は、いかなる広場で、いかなる塩を見たのか。
何度も書く。
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み
それがどうした?と言えばいい。
この句に、意味など、ない。
兜子の見た、或いは見たであろう風景。
それを追求する意味もない。寓意をもとめたくない。
単なる言語世界。(中略)
実は、私は兜子門に入った直後に
痩せてしまえば鏡が動く冬の壁
という『蛇』の中の一句に取りつかれてしまったのだ。
意味不明。鏡が動く冬の壁、は何も暗示していない。
それがどうした?と言うほかない。
にも関わらず、何事かを感じてしまったのだ。
私の兜子門に入った理由は、この一句からだ。(中略)
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み
兜子は言った。
「塩を見た。箱からこぼれていた塩を。広場で」
そのときの表情、憮然、としかいいようのない困った顔であった。
もう一編は、「赤尾兜子の遠景と近景と」(「犀」平成三十一年一月215号より再録)である。それには、
俳句には真っすぐ立ち向かっていきながら、その文体など技術は、若いときから師系列をもたず独自の道を選んだ。のちに兄事する髙柳重信から「兜子は俳句が下手」と言われたり、同行者の和田悟朗が「兜子の亜流は生まれない」と評するようになっていく。それ故に兜子作品はこれからも多くの人に論じていってほしいと、思う。(中略)
その鴨居玲から兜子は「もっとも苦しかった時代の作を、私の悪戦苦闘の画と交換したい」と言われて、
ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
を墨書して差し出した、という。
鴨居玲の年譜の最後は、昭和六十年九月、自宅にて急逝、とある。享年五十七。兜子没後四年のことであった。
と述べている。ともあれ、木割大雄作品「七十七句」から、以下にいくつか挙げておきたい。
叡山はこちらが正面霞立つ 大雄
荒東風に立つや件の踏切に
風鈴の舌ながくせり新世帯
訪ね来て男日傘の置きどころ
昼の月寺に開かずの扉かな
別名を虎酔と言えり捨団扇
老人の広場に雨ぞねこじゃらし
七草に足らざる粥をすすりけり
緋色なる着物の紐や初点前
巻末に、「木割大雄が毎週月曜日に更新して60回を超えました。
『木割大雄の俳句の小径』というタイトルです。
https://ameblo.jp/kiwaridaiyu/
開いてみて下さい。よろしくお願いいたします」とあった。
そのブログの冒頭には、毎号「まことに小さい声ですが」・・・とある。
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