救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(6)
脳髄のはまひるがおの旅人よ 浩司
俳句が日本文学において詩であることを掲句から実感する。
古代より旅は詩の無限の源泉であり、詩人は旅をする。現存最古の万葉集から、平安時代の西行、近世の芭蕉、現代の西脇順三郎まで、幾多の詩人の歩行が詩を創り出してきた。
その時「脳髄へ(頭の中)」は詩語となる。
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
そして、西脇順三郎の詩集『旅人かへらず』の書き出しは・・・。
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
安井は俳句人生の旅人である。
掲句へ戻ろう。
「はまひるがお」は、俳諧的あさがお、山林的詩人、加藤郁乎の「ひるがお」の先へと、海辺に歩を運ぶ詩人の行為を、象徴的に表している。「脳髄」の語からイメージされる肉体的な直接の感覚によって、深層へと俳句の旅は行為される。この実景でもない、しかし、実景であると感じ取れる掲句から、俳句であり詩である実感を得るのである。
稲の世を巨人は三歩で踏み越える 浩司
二五〇〇年前頃の縄文時代後期に水田での米作りは、朝鮮半島もしくは中国大陸から伝えられたと言われている。水田での米作りが、一万年続いた縄文時代を終わらせ、弥生時代の農耕文化、その後の古代国家の時代となる。そして、掲句の三歩は、縄文・弥生・古代国家の三つの時代を「踏み越える」と仮想する。
巨人が三歩で行きついた古代国家に何があるのだろうか。
神話的、伝説的「稲の世を」を様々な読みが行われてきたが、「三歩」で立つ巨人の眼下には、最古の歌集「万葉集」の世界が拡がっていたと思いを馳せる。
撮影・鈴木純一「黙阿彌忌レモンの皮の削いだのを」↑
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