救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(10)
麦秋の創造されたる嫁であれ 浩司
安井は生涯に、何度か自選句を選出したが、選択した句にかならず入っていた一句である。
時折、安井インタビューで、俳句は構造であり文体ではないと答えていたことを思い返す。たとえば、読解では、句集に書かれたことば(俳句作品)を読者が読み、作者は書かれたことばの向う側の見えない姿として存在する。読者、句集、書かれたことば、作者、時間、空間などを有した構造となる。
汝も我みえず大鋸(おおが)を押し合うや 『汝と我』
この句は読者と作者の構造を「大鋸を押し合う」ようだと表現する。
では、掲句においてはどうだろう。「麦秋の」の句を普通に読んでみれば、上句で切れるのだが、「麦秋の創造」と、中句の途中で切れを入れた読み方をしてみたい。
「麦秋」は夏の季語であり、万物が様々に変化する美しい風薫る季節だ。
薔薇・紫陽花・花水木・蔓・撫子・都忘れ・空木・菖蒲など、初夏の花々は順に開花し、北国では花々が一斉に花開く。更に、青々とした葉の夏木立、青い実を付けた青木立は、田畑や山々、野草や雑草とともに緑濃く彩られた世界を創る。その青々とした世界に麦穂の黄色は一面に拡がる。
中句の「されたる」の「され」は古語、さる「戯」の連用形で、洒落ている、風流だ、趣がある意味だが、日光や風雨にさらされよけいなものがなくなるからこの意味になる。そして、古語「さる」は現代語の「洒落る」である。
そこで、「さすがにされたる遣り戸口に(源氏・夕顔)の訳が、しゃれた趣のある引き戸口」と古語辞典(大修館全訳)にある例を見れば、中句の「されたる」は洒落た趣のある意味となる。
そうすると掲句が言い表した事は、美しい麦秋の季節は天地万物の創造であり、この麦秋の創造のような洒落た趣のある嫁であってほしいという願いの句だ。
そして「俳句を自分の主、もしくは妻として選ぶのに何の抵抗もなかった(『安井浩司選句集』インタビュー)となれば、「嫁」は、結婚したばかりの妻、俳句であり、「麦秋の創造」が俳句の創造の源であってほしいと文体的に読んでしまう句でもある。
最後に、「嫁」という語を女性の俳人はどう受け止めるのか。安井の俳句を女性とする考えを、「妻(つま)」から「夫(つま)」へ変えればよいのかという単純なことではなく、俳句と嫁と妻を書き手の俳人が女性性で、同時のこの関係からは、これまでの読み方では読みは成立しない。それで、文体的に読まざるを得ない句となる。
俳句=女性、作者=男性、この考えを超えるのに、韻律による自然言語で俳句を書く他ないように思える。散文的なことばを避け、韻律の自然言語で俳句を書ければ、男女の性差を超える。そして、俳句のことばが詩言語となるように思える。自然言語は、人類の歴史の中で自然発生したもので、誰しも己自身の言語の深層から発生してくるものである。
追記
句を成す友よ。いずれにせよ、その荒野の軌なき道を歩む外無いのである。
(「虚空山河抄」より)
自己へ(私としての個)の道を歩む他なく、誰しも、只、今、ここに生きている。
浄土門の向かう、瑠璃王土に安井浩司の立ち姿を見る。
撮影・鈴木純一「白菜をはがしてだんだん忘れてゆく」↑
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