2018年12月12日水曜日

竹中宏「栗の花かつて躁転して非戦」(「翔臨」第93号)・・・



 「翔臨」第93号(翔臨発行所)、小笠原京(けい)「竹中宏俳句を探る」は、興味深い。その冒頭に、

 以下の断章群は、論証、説得を目的としない。ただ、竹中宏の読者への問いかけを発することになれば思う。

 とあって、10項にまとめられた、文字通りの断片(断章)は、その断片の一つ一つに小笠原京による竹中宏俳句への入口が示されていよう。その集められた項目の一は「あるもの」であり、別のひとつは「ないもの」であり、また「出現の目立つ季語」であったり、「言語をオブジェにする」であったりするのだが、そのうちの一つ「ある視点『遠』」に、

(前略)ある遠さは灼けてしづかにもがく濤
 ここでは「遠さ」という名詞、「ある」を冠せて一層限定されているが、作者独自の把握である。鑑賞する読者は、自分の想像力に依って、その「遠さ」を俳句に定着させる作業をしなければならない。
 「遠」は、ある不確かさを持つ。不確かさゆえに、興味を誘う。
  丘への凧遠い発光遠い受胎
  春暁や放尿とほき世のはじめ
  この瞬間籟はとほくの海豚(いるか)の上
右は、いかにも竹中宏俳句らしい発想と表現だが、「遠」の視点が、私には遠すぎる。

 と率直である。他に、青木亮人の連載「批評家たちの『写生』二十三ー小林秀雄(その十五)」では、現在では、珍しく?なってきたと思うが九鬼周造を引用しながら虚子の句に及び、「留意すべきは、偶然性は必然性を前提として見出される現象であり、しかも遡及的に発見される『現在』であることを忘れてはなるまい」と記されると、おもわずウンと納得してしまう。中田剛の連載「飴山實ノート」も33回、いずれも高論で、双方ともいずれ一本にまとめられることと思い、楽しみである。
 ともあれ、以下に本誌より一人一句を挙げておこう。

  とりとめなき旅に祖父陰嚢(おほぢがふぐり)と知る  竹中 宏
  桃むさぼる子のまだ知らぬ桃太郎           中島 博 
  秋の夜の何を剥くにも向かぬ刃を           小林千史
  一匹で鳴いて鳴き止む法師蝉             尚山和桜
  目盛にぽかりエミューの耳の穴            土井一子
  第三の原爆忌にて黙禱なし              小笠原信
  対岸も大河川敷大花火               八木千代子
  ハモニカで東風吹かせたる道化かな          伍藤暉之
  部首「父」の愛しき三字蛇笏の忌           中村紅絲
  猫の足杓子の腰や阿波踊               小山森生
  八桁の暗証番号鵙鳴けり               洲﨑展子
  首垂るる御大師背負ひ終戦日            上羽美津子 
  梅のほぞとるやみどりの風通る            宮下初子
  裏返しにしてリュックから瓜を出す          後藤洋子
  払ひ下げ京阪車輛青田中               河地住美
  初めての囀と聞く目覚めかな            島田刀根夫
  梅雨に入る屋根の上だけあかるくて          中田 剛
  みんなみに火星や月下美人咲く            槌井元子
  手をうらにおもてに春の水ゆかす           加田由美
  積乱雲水平線が動かない               林 達男
  解散のまへに整列夾竹桃               西川章夫
  蛇苺見詰める見詰められてゐる          ひろせさかえ
  夏の月サロメの肌に抜糸痕             稲守ゆきほ
  冷奴無人島では有りつけない             小笠原京
  蒸し暑し地下鉄クオーと鳴き曲る           山田 都
  前世の寿命を記して浮いてこい           中山登美子
  神鏡のなかは西日の照り返し             井上和子
  「陰獣」の古ポスターに毛虫匍う           東樋口護
  芍薬の土佐へ白波絶え間なし             古川顕星
  ばね指をこきと戻せり夏の暁(あけ)         國弘正義   

  

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