数日前、このブログで《そして、》に関わって、橋本七尾子のことに触れたので、ついでと言っては差し障りがあるが、その父・柳田知常のことに関わる思い出話しを少し・・
愚生が二十一歳の頃?のことである。
初めて貰った色紙が柳田知常だった。
「俳句評論」の句会のあとで、たまたま俳句大会へ、投句するように勧められ、その場で、句を投句した。
愚生の句は忘れてしまったが、柳田知常の大会選者特選としていただいた色紙である。句は「野菊咲いて欝々と太鼓鳴りをれり」である。
そのとき、はずかしながら、初めて柳田知常(俳人諸氏のあいだではチジョウと呼ばれていた。本名・ともつね)の名を知った。
どうやら、知常は日本文学研究者で、名古屋の某大学の学長も勤められたことがあるらしい。
俳人としては、「俳句評論」の同人で、のちに俳句同人誌「橋」の発行人を務められている。
その実娘が橋本七尾子だ。
縁とは不思議なもので、橋本七尾子と知り合いになる以前に、彼女の実弟・柳田・・・と、知り合っていた。
弟は当時名古屋の某書店労働組合を結成し、その委員長を務め、愚生が書店労働者の全国組織化と書店労働者の組合闘争記をまとめた『本屋戦国記』(北宋社刊)を出した直後に、講演交流会を開いてくれた一人だった。すっかり意気投合した(なかなかイイ男だった)。
余談だが、橋本七尾子の俳号を付けたのは仁平勝である。七尾子の本名は直子で、小説では横浜文学賞受賞であるらしいことは聞いていた。
同姓同名の俳人がいたので自分の俳号を変えたと言っていた。
愚生が武蔵小金井に住んでい頃、駅前のパチンコ店にほぼ毎日通ったことがあって、パチンコ店で橋本七尾子にばったり会ったこともある。彼女はマージャンも相当な腕前で、仙台に引っ越して「小熊座」の人たちとも、きっとマージャンで仲良くなったのではないかと思っているくらいだ(もちろん、句会でも・・・)。
弟は愚生と同年齢だったはずだから、気風のいい姉御である。現在「円錐」(澤好摩発行人)同人としてもご活躍。
「俳句評論」に関わって思い出したことがあるのでその話題も一つ。
当時(1978年)、「未定」創刊に馳せ参じた男がいる。名を比田義敬といった。後、義之と変えた。ある時、一冊数万円もする本を、愚生の勤めていた書店の社内売り(定価の2割引)で買って上げた際のお礼だといってくれたのが、「俳句評論」忘年句会でのブービー賞にその場で各人に自画像を書いてもらったという代物なのである。
五つの色紙に記された五名の名は、誰あろう高屋窓秋・三谷昭・高柳重信・三橋敏雄・大岡頌司である。それぞれ、自分の貌をよく捕らえて描いている。
記された期日は1976年12月18日「俳句評論」の集い、ブービー賞と比田の字で記されてあった。
いただいたのは1997年1月24日と愚生が記しているから、その時でさえ20年を経ていたことになる。
「未定」創刊号(1978年12月)に掲載された比田義敬の句を記しておこう。
消しゴムの端から草植えて白夜 義敬
恍惚と群青に向く海の水
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