掲出の句には以下の前書きが付されている。
原発事故によつて放射能汚染された土地では除染のために表土を剥ぎ取る。一面の紅葉の中、削り取った汚染表土を入れた何百個もの黒い袋が至る所に野積みになつてゐる。〔福島県相馬郡飯館村〕
セシウムをめくれば闇の逆(さか)紅葉 時男
この句の前の句は、
「原子の火」こぼれてセイタカアワダチサウ
井口時男句集『天來の獨樂』(深夜叢書社)、句のほかに随想を収める。跋文「天來の獨樂」に寄せては吉田文憲、室井光広。これら、本書に収められた散文を読めば、井口時男のおおよそが知れる構成となっている。とりわけ、著者「随想」の「突つ立ち並ぶ葱坊主ー俳句的日常」には自句自解の要素が窺われ、井口時男の出自が了解できよう。同時収載の「光部美千代さんを悼む」にはその出会いと光部美千代の句を紹介し、著者の批評家としての眼差しと熱い心情が伝わる。
光部美千代は昨年の「鷹」50周年の「鷹の百人」にも「写実を超えて」の題で紹介されている。50歳代後半、まだ若い命を失った俳人である。その才能を惜しんでいるのだ。
ともあれ、著者の俳句観と思われる部分を以下に紹介し、いくつかの句を挙げておこう。
こうして私は、俳句が詩を羨望することの必然性と俳句が詩になることの不可能性とを、同時に知ったのだった。「現代の」表現として、俳句は詩を志向しなければならない。しかし、俳句は詩を志向してはならない、ということだ。これが「現代の」俳句を拘束するダブルバインドなのだ、と私は思った。
二〇一五年記「てんでんこ」七号
わらわらと抱かれ曳かれて春の犬
天皇(すめろぎ)老いし日や襯衣(シャツ)の襟垢染みぬ
七月二十八日午前零時三十八分祖母死去
短夜を腰の伸びたる仏かな
口寄せを了へてイタコは腰を伸(の)し
刑務官ら破顔(わら)へり若き父親(ちち)なれば
井口時男(いぐち・ときお) 1953年新潟県生まれ。
ツワブキ↑
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