2019年8月23日金曜日
筑紫磐井「さうですか、第二藝術になりましたかと扇ぐなり」(「オルガン」18号より)・・
「オルガン」18号(編集・宮本佳世乃、発行・鴇田智哉)、特集の座談会が二つある。一つは「オルガン17号の座談会にこたえて」で、筑紫磐井VSオルガンのメンバー。もう一つは「石寒太からの質問状」で、石寒太VSオルガンのメンバー。双方とも読み応えがある。本ブログでは、紹介するにも限界が大ありなので、それぞれチョッピリ紹介しておきたい(あとは本誌に当られたい)。
福田 (前略)この『婆伽梵)にも、〈静かに汗す風月堂の氷菓(アイス)かな〉、〈多産の夏貯蓄に励め少国民〉や〈八月は日干しの兵のよくならぶ〉など、より近代的なイメージが現われてはいますが、句集として読んだ場合は、『筑紫磐井集』のなかに入っている『花鳥諷詠』で、舞台が大きく変わるという感じがします。王朝文学のパロディをやった延長線上に、高濱家パロディがある。(中略)
筑紫 (前略)下手すると新興俳句に引きづられちゃうというのだけは嫌だなと思っていました。一番対極をなすのが、花鳥諷詠の世界ですよね。花鳥諷詠を尊敬している人・猛反発している人は多いけれど、斜に構えて利用している人はいない。高濱家のホームドラマを最初は書いてみたかった。テーマが変わればおのずと文体も変わります。
その他、鴇田智哉の倫理的な囲いを感じさせる「不謹慎」の有り様、対して「不謹慎」であってなぜいけなのか論争に発展?・・、あるいは田島健一の「素材が社会性を帯びるのは作者の態度によるのではないですか?」という筑紫磐井への批判に対する筑紫磐井の反論など、興味は尽きない。
もう一つの座談会。石寒太も若い世代に対して、けっこう真っ向から質問していて、こちらの座談会は俳句作法に直接かかわっていて、これも興味深々だった。愚生も実作者の一人なので、どうしても、若いと言われる人たちの俳句の言葉が、ただ今現在どのようなところから発せられているのか、また発せられた言葉はどのような回路で紡ぎ出されているのだろうか、ということについて、しかも、ただ今現在を、まっさらな俳句の言葉としどれほど関わりをもてているのかについては、愚生にとっても、自らを鼓舞できる希望を与えてくれる。まあ、痩せ我慢の強がりのよううなものであるが・・。
鴇田 (前略)僕自身が兜太さんと違うところは、土着的なリズムとかそういうことではなく、十七音がたまたま与えらていたので、そのなかでやっているうちにポエジーの生じる場に出会えることに気づいたということです。俳句のリズムについていろいろなことを言う人がいて、よく、五七五の背後にあるのは四分の四拍子という偶数拍の三小節だ、という説が言われていますが、あれには僕は反対です。(後略)
これに似たことで、よく「俳句は十七文字」という人がいるが、愚生は鴇田智哉と同じで、あくまで「俳句は十七音」を基調としていると思っている。あるいはまた、
鴇田 (前略)「中心のない俳句」は私が考えたもので、碧梧桐の「俳句無中心論」とはまったく別のものです。特別な存在としての単語(季語・キーワード)が不在で、言葉と言葉の引っ張り合いだけがあるような句を私は想定しています。〈回るほど後ろの見えてくる疾さ 智哉〉という句ができたときにそれを直感したのです。(後略)
と、語っている。ともあれ、同誌本号より一人一句を挙げておこう。
山鳩の三羽のこゑが三角に 鴇田智哉
雲のなかをこみあげてくる夏の月 福田若之
ビール買ふ袋に伸びてゐうセロリー 宮本佳世乃
夏つばき庭を出てゆく人の数 田島健一
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