2021年12月4日土曜日

林桂「ポインセチア紙金銀に触れ合ひて」(『百花控帖』)・・



 林桂句集『百花控帖』(現代俳句協会)、書下ろし句を含めて百句を収める。その「あとがき」の中に、


 花は不思議である。いわば性器だが、動物の陰部に隠されるべきものとは違って、形、色、匂いと美を尽くして顕在するものが多い。異性を求めて行動できる能動的な動物は、下心を隠すように性器も隠すが、昆虫や鳥などの媒介者を必要とする受動的な生殖のあり方を選択した植物は、性器を掲げる。媒介者へのプレゼンテーションもプレゼントも用意されている。生として最も本質的な生殖を第三者に委ねるというのは、悟った哲学者のようである。花の美しさはそんなところにありはしないか。(中略)

かつ、花を詠むとは、花そのものを書くというよりは、その関わり方を書くことだったと、まとめながら思ったことだった。

 六十代は様々な喪失以後から、自分の喪失までを生きる時間のようである。父母をはじめ様々な喪失以後を生きている。編集しながら、改めて強く思ったことだ。

 花という装置の不思議を改めて思う。地球は水の星と言われるが、また花の星であろう。喪失を癒やす花がなかったら、地球はどんな淋しい星になっていただろう。


 とあった。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておこう(原句は総ルビである)。


   海からの風の中(うち)なる桔梗かな        桂

   空の彼方に海あるひかり曼珠沙華

   人流(じんりゅう)の絶えて久しき蘆の花

   かの村のかの境内の黒椿

   一枚の大空青き花林檎

   田に水が巡る遠照(とほで)り梨の花

   白木蓮(はくれん)に風の道空(あ)く光かな

   ゆゑなしに悲しき胸や翁草(おきなぐさ)

   父母(ちちはは)の死にたる家の花通草(はなあけび)

   月下美人へ兄呼んでくる弟よ

   芍薬の花は終りを地に触れて

   瀧を経て水めぐりくる鴨足草(ゆきのした) 

   向日葵の迷路の中を呼びあへり


 林(はやし・けい) 1953年、群馬県生まれ。



★閑話休題・・荻原井泉水「潦に残る夕日/絵本を拡げをる露店」(『多行形式百人一句』)・・


 林桂編著俳句詞華集『多行形式百人一句』(鬣の会・風の冠文庫)、髙柳重信の言葉の一部が序文として掲げられている。


  端的にいうならば、多行表記は、俳句形式の本質が多行発想であることを、身にしみて自覚しようとする決意の現れである。したがって、俳句表現を、一本の垂直な棒の如きもの、として認識しようとする人たちには、もちろん、多行表記が存在し得るはずはないのである。まして、俳句形式について、如何なる洞察をも持たないか、あるいは、それを持とうとしない人たちには、はじめから、一行も多行も、それこそ、何も存在しないのである。

  (「多行表記について」部分 「俳句評論」第九十三・九十四号・昭和四十四年七月)

 

ともあれ、少ないが数句を挙げておこう。


  炎天とどめなし

  監督がなんだ             (大正九年『逢』)宮林菫哉


  日像(ひ)の

  ひかり平和に

  ひとつびとつの石器たち  (昭和十六年「山脈」二十二号)山崎靑鐘


  火を噴く山ははるかにて

  ・・・・・ 

  草の芽          (昭和十七年「琥珀」)富澤赤黄男


  白蟹を

  餌とし

  うなそこに白夜あり   (昭和十八年「天の川」)吉岡禅寺洞


  ひろしまに

  あゝ

  血まみれの

  鳩抱き         (昭和二十七年「平和祭」)野田誠


  森羅

  しみじみ

  萬象

  一個の桃にあり      (平成元年『花傳書』)折笠美秋


   

        撮影・鈴木純一「凩1号ぼうしを横っちょにした」↑

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