小澤實著『芭蕉の風景』(ウエッジ)、上下巻の帯の惹句には、
寛文6(1666)年4月、芭蕉23歳。人生をかけた旅が始まる。
故郷・伊賀上野から芭蕉は江戸で自らの俳諧を確立。そして「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」の旅へ。23歳から45歳までの芭蕉の吟行をなぞり、芭蕉と同じ土地で句を詠み続けた俳人・小澤實のライフワーク『芭蕉の風景』。句集未収録の約200句を収録。(上巻)
21世紀の日本に芭蕉を訪ね歩いた20年、ここに完結。
いよいよ円熟する芭蕉の俳諧、旅もクライマックスの「おくの細道」から終焉の地、大阪へ。
2000年から約20年にわたり、狂おしいほどの情熱で芭蕉の旅を追いかけた俳人・小澤實のライフワーク。句集未収録の約240句を収録。(下巻)
とある。そして「はじめに」では、
(前略)有名でない句にも確かな魅力がある。さらには、芭蕉が句作の際、赴いていない地にも行くようになった。もちろん句中の地名や単語に関わる地である。その旅先でゆっくり句について考えた。発句だけでなく、連句の付句に詠まれた場所まで訪ねるようになった。連句の付句の中の場所は、詠んだその時、芭蕉はそこにいない。芭蕉の付句一句にも、強い求心力があるものがある。いつか芭蕉が、芭蕉の句が、さらに大好きになっていた。(中略)
芭蕉の発句は、改作されることが多かった。芭蕉は初案を実に粘り、改作を重ね、佳句へと変えてゆく。なぜ、そのように改作しているかを読み解くことは、芭蕉の息遣いを感じることだった。
芭蕉の発句は、現代の俳句のように単独のものではない。連句の発句として、脇句が付けられることも多い。その脇句とは、その発句の最初の読みの試みであったはずだ。脇句が付けられている句は、しっかり脇句との響き合いまで読み解きたいと思った。(中略)
一句の文章は完結しているので、開いたところから読み始めてほしい。また、芭蕉俳句の制作順に並べ直してみたので、通読して芭蕉の人生のうねりのようなものを、それらの句を通して感じとっていただけたらと思う。本書を読んで、芭蕉や、俳句の世界に親しみを持っていただければ幸いだ。(以下略)
とあった。上巻の内容は第1章「伊賀上野から江戸へ」、第2章「野ざらし紀行」、第3章「笈の小文」、第4章「更科紀行、下巻は、第5章「おくの細道」、第6章「上方漂泊の頃」、第7章「晩年の世界」。そして巻末には、索引「地名・人名・文献・引用句(小澤實の句も)ほか」が付されている。また,各章の扉には、主要な部分の解説が掲げられている。
それぞれ、芭蕉の一句が文頭に置かれ、文末には、小澤實の句がほぼ2句づつ置かれている。例えば、巻頭の句は、
亰は九万九千(くまんくせん)くんじゆ(群集)の花見哉(かな) 芭蕉
花の亰、謳歌の句
寛文六(一六六六)年旧暦四月、その後、芭蕉になる青年に、たいへんな事件が起きた。故郷の伊賀上野で仕えていた主君が急逝したのだ。主君の名は藤堂良忠。伊賀を統括する上野白の侍大将を嗣ぐはずの存在であった。青年は良忠に近習として仕えるとともに、俳諧をいっしょに学んでいたのだ。良忠の俳号は蟬吟、享年は二十五であった。青年の当時の俳号は宗房、わずか二十三歳。(中略)
亰の花、その特別な魅力
東海道新幹線京都駅下車、駅前からバスで八坂神社に向かう。余寒厳しい日暮だが、境内は灯されて明るく、観光客も多い。丸山公園に入ると、さすがに電灯も少なく、人影も多くはない。枝垂桜の老樹の近くに、桜の木が多く植えられている。(中略)
比叡より雲流れ来(き)ぬ桜の芽 實
手袋を脱ぐや桜の木肌に触る
という具合だ。愚生は18歳から21歳まで京都に住んでいた。丸山公園にはよく行った(デモの解散地点だったし・・)。70年安保闘争前のことだ。八坂神社付近の様子もよく分かる。ともあれ、以下には、( )内に芭蕉の句を、そこに付された小澤實の句をいくつか挙げておきたい。
(霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き) 芭蕉
富士ありぬ秋雲厚く動く奥 實
(秋風や藪も畠も不破の関)
かやつりぐさかがやくみちとなりにけり
(海くれて鴨のこゑほのかに白し)
鴨発てば鈴の音(ね)ありぬ海の上
(鮎の子のしら魚送る別哉(わかれかな))
春の雪千住へのぼる舟もなし
(うきわれをさびしがらせよ秋の寺)
かまきりのわれに怒るや石の上
(いざさらば雪見にころぶ所迄(ところまで))
雪の香あり万年筆の蓋取れば
因みに、ブログタイトルにした、小澤實「芭蕉の葉破(や)れに破れかつ黄ばみたり」の句は、芭蕉「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」の句に付されている句である。
小澤實(おざわ・みのる) 昭和31年、長野市生まれ
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