2019年6月15日土曜日

伊丹三樹彦「祖母の 母子の 声の溢るる 沙羅の寺」(『俳句納経應聖寺』)・・



 伊丹三樹彦『俳句納経應聖寺』(発行・應聖寺、非売品)、桑谷祐顕「『俳句納経應聖寺』刊行に寄せて」には、

(前略)本書は、言うまでもなく、伊丹先生が度々應聖寺をお訪ねになり、その時々に作られた俳句の集成である。また先生と應聖寺並びに先代住職との永年のご縁を物語る集大成でもある。また、時には、同人や多くの弟子・生徒さんと共に日がな句作に励まれ、度々本堂のご本尊様の前で句会を開催され、ご宝前に奉納された数々の献句集でもある。
(中略)
  我が寺に 迎えに来たよと 仏たち
右は、先代住職佑廣和尚の辞世の句である。平成三年九月、突然、医師から「余命三ヶ月」の宣告を受けてから丸十二年、先代は「仏さんに、まだこっちに来んでええ」と言われたと語り、「人間には自然治癒力がある」などと言いつつ、生に執着することなく、自然体に余命をあるがままに生き抜いた人生だったと思う。その寝たきりの一年余から蘇り、自力で鑿と石槌を握って、「沙羅の寺」門前に、八メートルを超す涅槃仏を刻んだ。頭部と足は石造。胴体は大きなサツキで形成され、四季折々の花を植栽した「涅槃図立体花曼荼羅」を完成させた。
 「三日食べなければ、きれいに死ねる」と、平成十五年五月末日より断食し、その言葉通り、その三日後に逝去し、来迎の仏たちと共に浄土に旅立った。

 と書かれている。應聖寺は、通称「沙羅の寺」と呼ばれている、という。姫路から播州平野を北に20キロ、古代「播磨国風土記」にもその名がある高岡の里に位置している。ともあれ、本集より「追補/新作 平成三十一年四月二十日」の書下ろし句群を主に以下に引用しておきたい(伊丹公子は別)。

  眼中に あふれて煙る 沙羅の村      公 子 
  百千の 句こそが供養 沙羅の寺      三樹彦
  先住の寝仏 石の髭 石の蹠(あうら)
  花の寺は また歌句(かく)の寺 囀れる
  蓮の夢 沙羅の夢 見て 老いて
  沙羅の花 縫うては ついと 宵螢
  亡き妻と歩みしことも 沙羅の寺
  句碑守は妻へ 長子へ 沙羅の寺
  別号は花咲祐廣(はなさかゆうこう) 花の寺
  天上の友に待たれて 沙羅の花
  三途の川ならず 睡蓮の橋渡る
  
  




★閑話休題・・・荻原井泉水「地は寂光の曼陀羅となりし月高し」(「俳句αあるふぁ」夏号)・・・


 仏つながりで、「俳句αあるふぁ」夏号の特集は「俳句と仏教」である。論考は、飯田龍太「愛別離苦」、市堀玉宗「仏道と俳句ー異形衆としての生き方」。採録された俳人は、尾崎放哉・種田山頭火・荻原井泉水・川端茅舎・高岡智照尼・河野静雲・松野自得・森田雷死久・喜谷六花・大谷句仏・名和三幹竹・尾崎迷堂・八幡城太郎・中川宋淵・住宅顕信・大峯あきらの16名。愚生の不勉強で全く知らないでいた俳人もいた。他に、また、伊丹三樹彦が「再会一途」新作10句を発表している。それと、「豈」同人の高山れおなが「夏の扉」新作7句を寄せているので、各一句を以下に挙げておこう。

  初会 再会 偶会 白髪や 老眼鏡   伊丹三樹彦
   「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」展、於京都国立博物館
  数知れず日焼けひじりのうごめく絵   高山れおな



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