「里」2022年8月号(里俳句会)、今号表紙に、【わが心の俳人】とあって、瀬戸正祥「多田裕計」、谷口純子「太田うさぎ」、島田牙城「三浦健龍」がそれぞれ執筆している。愚生にとっては、何んと言っても三浦健龍である。彼が中心だった同人誌「鷺」に、同人でもない愚生が作品や、「高柳重信論についての覚書」という連載を書かせてもらったのだ。高柳重信晩年の頃で、まだ、高柳重信論など書こうという無謀な若い俳人は見当たらなかった。45年近く前になる。その島田牙城「わが心の俳人」には、
殴られたことがある。向日町のちいさな料理屋「矢尾末」の二階で「鷺」「東雲」合同の忘年会をやつた。写生の先に何があるか、何を求めるか、といふ青臭い議論が続いた。議論は句会の後の宴に持ち越された。その辺りからの記憶がない。故に殴られた記憶もない。朝起きたら鼻血の跡が頬にあり、同席した仲間に「健龍さんに殴られた」と聞いた。(中略)殴られたからといつて絶交した訳ではない。その後も何度か会うてゐる。桃山城へ吟行した折の健龍さんの後ろ姿は格好良かつた。誰とも睦まず馴染まず、黙々と一人前を行く背中こそ、健龍俳句の句姿なのだと今も思うてゐる。
儂より八つ歳上、既に「雲母」(飯田龍太さん選)の「作品欄」巻頭を数度もぎ取つてゐた。あくがれの先輩だつた。いつしか消息を聞かなくなつた。その後を、知らない。
と記している。「鷺」の同人には、川上袈裟男、中村光影子、藤原幹次、妹尾健、谷村能里子、堀之内勝衣、若林卓宣、中田剛などがいた。
愚生は、二十歳の頃、一時期、赤尾兜子の「渦」に居た。三浦健龍も居た。当時は岸本尚毅もいた。若手俳人が多くいたのだ。後に藤原月彦や坪内稔典も参加した。島田牙城も書いているように、健龍は俳句の世界から、忽然と姿を消してしまった。父は三浦秋葉、「雲母」同人で主宰誌をもっていたので、あるいは、その主宰誌を継承したのではないかとも、考えたが・・。確かパチンコ業界紙の記者になられたようだったが・・・。とにかく、途中より音信不通となった。愚生が、二十代のはじめ、京都から東京に流れついた頃、たしか、三浦健龍に妹尾健、あと一人どなたかが、わざわざ東京は武蔵野の愚生のアパートに尋ね来られ、泊り、翌日は、吉祥寺の喫茶店で藤原月彦にみんなで会ったような記憶があるのだが、たぶん、そうだったと思う。50年前のこと・・。
ともあれ、「わが心の俳人」の牙城選の句からと、「鷺」からいくつか紹介しておきたい。
揚羽過ぐ薄命伸びるごとくなり 健龍
父母を逐ふくちびる螢くさきかな
蟬時雨夢前川を流しけり
帰り花まつさきに木を忘れけり
萌木匂ふ斃れるための野がありて
花終えて木犀はまたしづかな木 「鷺」20号(1979年9~12月合併号)
片陰を出てきなくさき背丈かな 「鷺」13号(1978年7・8月号)
鉄砲店からのっそりと夏の月 〃
三浦健龍(みうら・けんりゅう) 1949年1月13日生まれ。
芽夢野うのき「あの人のいないあの窓のキバナコスモス」↑
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