2016年9月25日日曜日

大熊峰子「身のどこかこはれゆくなりセーターは赤」(「門」10月号)・・・



「門」10月号に若い外山一幾が「書き手・読み手の矜持について」と題して、「門」(平成28年4月号~6月号)の同人作品評を試みている。結社誌のこうした作品評はよく目にするのだが、丁寧に読み解いている批評は珍しい。外山自身による引用された句が少ないのは少し物足りないが、俳句を書き、また、読もうとする際の身の構え方にについて誠実に述べられている。例えば、

 思うに、書く者と読む者とは、ついに孤独者にすぎないのではあるまいか。そしてこの孤独のなかに立ち続けながら、互いに手を伸ばして交渉を試みては失敗するということが、-いわば不幸を引き受けるということがー書くという営みの実態なのではなかったか。(中略)
すなわち交渉の成功を求めつつ敗北する涙のなかにこそ、書き手・読み手の矜持があると思うのだ。

或いはまた、

  春の眼鏡屋めがねの似合ふ女店員    門屋文月

僕は先に述べた理由をもって、下五の「女店員」を「じょてんいん」ではなく「おんなてんいん」と読みたいと思う。

としたのちに、他の作者のリフレインを用いた句が散見されたのに対して、

  一人静しづかに平田君代死す    成田清子
  水の春みづもこころもたひらなり   梶本きくよ
  老人は歩けあるけと青き踏む     喜岡圭子
  しがらみを巡りめぐりて春の水    白井イサ子 

この技法はとくに珍しいものではないけれど、それだけに、使い方が難しいと思う。というのも、この「漢字+ひらがな」のリフレインが何かしら詩情めいたものをもたらすことは僕たちがすでに知ってしまっていることなので、それを安易に用いるのは、いわば料理の際に味の素を使うようなもので、それはそれでおいしくはあるけれども、その便利さにかまけてしまうならば書き手として不誠実なのではないか。
 だがその一方で、このリフレインが成功している句もある。

  もくれんの家に雨ふる母かははよ   鳥居真里子

この下五が「母か母よ」であれば台無しだろう。

とも述べているのは頷けよう。ただ、厳しく指弾されている句もあるが、良薬は口に苦し、若い人の誠実なる批評として受けとめ、今後の句作の糧とすればいいだけのことである。
ともあれ、他に引用され共感した句を以下に・・・。

  遺句集にこだはりて酒花朧     野村東央留
  遠くよりその人と知る夏帽子    神戸周子




                     オリーブ↑

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