2019年1月12日土曜日

崎原風子「鉄打つ音みな新緑に向きひびく」(「奔」第2号より)・・


 
 「奔」第2号(2019年春号、編集発行人・望月至高)、時宜を得たというべきか、「沖縄特集」である。本誌副題にある「句と評論」という題には、戦前に発行されていた新興俳句誌「句と評論」をいやでも思い出させる。『現代俳句辞典』(三省堂)の川名大による解説には、1931年7月に東京で創刊され、38年通巻75号で終刊とあるが、きっかけはその前年37年に細谷源二や中谷春嶺が工場俳句を推進するのに伴って渡辺白泉ら6人が脱退し「風」を創刊したとある。「風」には三橋敏雄も参加していたはずだ。
 崎原風子(本名・朝一)を本誌で見つけたのは、安里琉太「『沖縄』の俳句について」の文中である。愚生の記憶では「海程」が金子兜太の主宰誌になったとき、当時の編集長であった大石雄介、原満三寿、谷佳紀ら当時の有望な若手が「海程」を脱会した。その原満三寿と谷佳紀で「ゴリラ」という同人誌を創刊し(後年、谷は「海程」に復帰、後継誌「海原」にも参加)、20号で廃刊にするのだが、その寄稿者の中に崎原風子の名があったように思う。たしか「ゴリラ」の表紙は小口木版の日和崎尊夫だった。そんなこともあって、懐かしい思いになったのである。いわば、知る人ぞ知る幻の俳人である。金子兜太著『今日の俳句』(光文社・1965年)には、

  ツイスト終り河へ鮮明に靴ぬぐ母   崎原風子(ふうし)
  婚礼車あとから透明なそれらの箱

 の句が収録されている。今回、安里琉太の玉文で、改めて、沖縄生まれの崎原風子がアルゼンチンに移民していたことをおぼろげながら思い出した。その他、今号の沖縄特集には、いわば政治的な主張についての論に多くが割かれているが、その沖縄の在り様が、俳句の表現に具体的な成果として顕れているのか、については、俳句に関わる愚生には一段と興味がある。それは、未来ある若い二人、俳人で写真家でもある豊里友行により直接的に、また安里琉太には、より、内面的、象徴的な句表現としてあらわされているように感じた。
 あと一つ、望月至高「追悼 兜太と六林男」で思い出したことがある。正確な年は覚えていないが、現代俳句協会が、「数は力だ!」で会員1万人体制を目指していた。もちろん会長に金子兜太、副会長に鈴木六林男、小川双々子らがいた時代である。愚生は40歳代で、その頃、久保純夫や山﨑十生、高野ムツオ(全体で、若手の幹事はこれくらいしかいなかった)、そして、兜太の肝入りで創られた青年部長・夏石番矢がいたと思うが、その総会直前の幹事会で、丸山海道がいきなり副会長に抜擢された(当時「京鹿子」200名を引き連れて現俳協に加盟したと言われていた)ことに対して、「今まで何もしてきていない者がいきなり副会長では、スジが通らない」と猛烈に反対にしたのが鈴木六林男だった。小川双々子も続いた。若輩の愚生はただ眺めていたが、それでも、協会の組織運営上からすれば、俳人協会を脱して一挙に200人を加盟させるのだから、それ相応の処遇をもってするのが、組織としての礼儀だろう・・・と組織論からすれば当然のことかも知れない、とも考えた。さらに老害を排する、ということで、役員の定年を80歳に定めることにしたとも記憶している。ともあれ、個人誌ながら、大冊となった望月至高の古稀過ぎてなおの膂力に驚いている。というわけで、以下に、一人一句を挙げておきたい。

  金蠅や夜どほし濤の崩れ去る       安里琉太
  花デイゴ家族の墓は基地の中    親泊ちゆうしん
  みんな武器すて鉄砲百合が痛快      豊里友行
  月光にわたしの縊死を捧げたし      今井照容
  ひとを鶏を強制終了する津波       江里昭彦
  吃音の狐われを蒼きフォビアに誘いつ  大橋愛由等
  乱獲の網に人骨敗戦日          望月至高
  風にある海邦(うみぐに)の声あやはびら 大井恒行



     崎原風子の作品・日録が寄稿されている「ゴリラ」↑  
     本ブログ読者より(匿名氏)より提供(1月14日)。


          撮影・葛城綾呂 焔立つ ↑  

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