2020年5月17日日曜日

飯田龍太「冬ふかむ父情の深みゆくごとく」(福田若之「ここに句がある」より)・・




  「東京新聞」5月16日(土)夕刊、俳句時評欄の福田若之「ここに句がある」が、「〈文法の時代〉と伝統」の見出しで、

 雑誌『俳句αあるふぁ』は今年の春号に「俳句と文法」と題した特集を組んだ。編集部の署名のもとに、(中略)「史上もっとも文法に注目が集まり、句のよしあしの判断材料のひとつにしている」その一方で「古典文法勉強しないと使えないものとなり、教わった用法のみが正解であり、文法書に載っていない用法は「間違い」に見えるという、なんとも難しい時代」だという。(中略)規範意識に憑(つ)かれたある種の教条的な伝統主義に対し、同誌が編集部の名において生きた伝統を擁護する立場を明確にしたことに注目しておきたい。(中略)
 この一冊(愚生注・『飯田龍太全句集』)にも収められた《冬ふかむ父情の深みゆくごとく》という一句の自句自解に、おもしろいことが書かれている。「母情という言葉があるから多分『父情』という言葉もあるだろうと思った。ところが活字になってから辞典をみるとそんな字は出ていない」(中略)
 実際には、日本語における「父情」という語の用例は龍太の句より前に遡(さかのぼ)ることができるが、ここでは句をきっかけとした語の広まりに目を向けたい。伝統とは、こうしたいとなみのなかで繰り返し掴(つか)みとられてきたきたものだ。辞書にない言葉を否定するためにだけ辞書を持ち出すといったふるまいの貧しさを思う。そうしたひとの語彙(ごい)は、辞書を超えた言葉の豊かさに達することをついに知らない。

と、至極真っ当に述べている。




★閑話休題・・・虚子「秋風や眼中のもの皆俳句」(「枯野」創刊号より)・・


  愚生、資源ごみに出すべき古い雑誌などを少し整理していたら、すっかり忘れていた「枯野」創刊号(南方社・1982年6月刊)と第三号(1983年7月)が出て来た。それで一応このブログに書影を留めておこうと思った次第(「鵞」〈端渓社刊〉も少し出てきたが、FBで橋本直が購入などと言っていたので、資源ごみに出すのを思い止まった)。
 思い起こすと、ん十年前、「枯野」を何故購入したのだろうか。たぶん坪内稔典の連載「高浜虚子1/〈花鳥諷詠の思想〉」を読みたかったからにちがいない。「枯野」の発行は「枯野の会」で発売元が南方社である。副題に「日本文学研究誌」とあり、執筆者のなかに、当時立命館大学の教授だった国崎望久太郎「真渕歌論の構造」、「本居宣長」が別格のようである。その坪内稔典「花鳥諷詠の思想(上)」には「山本健吉は、高浜虚子には『及び難い東洋的大人(たいじん)の風格』があると言った」と書き出されている。

 (前略)明治三十六年に、
   秋風や眼中のもの皆俳句
 と詠んでいた虚子にとって、大正元年の俳壇復帰以来は、それ以前にもまして〈眼中のもの皆俳句〉でああった。眼中のものすべてが俳句になりえたのは、自然に随順することで日常を優遊の場に化したからだが、そういう句が〈大人の風格〉と見え、そうしてそんな句を書く虚子が〈大器〉と見える、そこに日本近代の人々の生のあり方がうかがえるのではないだろうか。それは、圧倒的に多数の人々の生であり、近代日本を支えた基層としての生であった。

 そして、「枯野」3号「〈花鳥諷詠〉の思想(下)」では、「近代日本における〈家〉は激しい解体にさらされていた」として、

 (前略)しかし、その困難を、〈家〉と〈個人〉の対立として把握するとき、ことに〈個人〉を優位において〈家〉を否定的に捉えるとき、私たちはしらずしらずのうちに或る歪みを正当化しているおそれがないとは言えない。〈家〉が、私たちの多くが根ざしている場所である限り、その〈家〉を積極的に評価する視点をも欠くべきではないだろう。
 ともあれ、虚子にとって〈家〉は、否定的な対象ではなく、積極的に仮構された生の拠点であった。そうした虚子の〈家〉に注目するとき、はたして何が見えてくるだろうか。

 と書きつけている。坪内稔典、たぶん38歳、38年前のことである。


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