2020年5月30日土曜日

さとう野火「日の丸も仏壇もなしおらが春」(『五年日記』)・・・




 さとう野火句集『五年日記』(東京四季出版・平成19年8月刊)、表紙カバーに刷り込まれている言葉は、

 定年後の二度の入院で死生観を考えるようになり/かつて取材した文人墨客の老境とこぼれ話をまとめ「辞世のうた」と題して執筆中である/学生時代に「現代俳句はこれでよいのか」と自問自答して苦しんだが/その思いは今も変わらない。

 愚生が、さとう野火に出会うのは、愚生が18歳の時、昭和43(1968)年である。上洛して、立命館大学二部文学部に入ると同時に、「立命俳句」(立命館大学俳句会)に入部したことによる。巻末のさとう野火の略歴には、「昭和35年、山口草堂主宰『南風』入会/昭和37年立命館大学俳句会発起(47年廃部)/昭和45年「『獣園』発起(52年廃刊)」とある。いま思うと、さとう野火とは8歳ほどしか離れていない兄貴分なのだが、当時は随分と離れた小父さん風であった。俳句についていつも熱心に語りつづけ、倦むことを知らなかった。正月にも帰省しない愚生に、毎日、家に来いと言われ、年末年始には、食事だけではなく、風呂にも入れてもらったりした。両親とも同居されていて、愚生らは、いつも玄関からすぐに二階に上がっていた。路地の向いは歴史学者・会田雄次の、これは門構えの立派な家だった。その当時の奥さんが城貴代美だった。愚生は、「立命俳句」7号を出してすぐ、学校には行かず上京した。 
 その「立命俳句」7号(1970年3月刊)は終刊のつもりで黒表紙にしたが、それを見た久保純夫(当時・純を)が、高校生の頃からの仲間たちと野火宅通いを始め、「立命俳句」を引き継ぎ、後の、戦無派作句集団「獣園」を創刊した。



久保純夫発行・編集・土井英一時代の「獣園」、表紙絵は大谷清(今、気づいた)↑


 さとう野火は2012(平成24)年7月26日、享年72、現在の愚生と同齢で亡くなった。本書の「あとがき」に、長くなるが引用する。

 (前略)洛東、安養寺の村上四明師に俳句を勧められたのは夏休みに入ったときで、素直に有季定型に入れず悩んだ。当時、前衛運動が盛んで、俳壇も例外ではなかった。戦時中の言論弾圧、戦後の短歌俳句に対する第二芸術論の余波があった。やがて山口草堂の指導を受けてモノの見方、リアリズム、リゴリズムを学ぶが抵抗ばかりした。何か人間臭いものでないと現代文学ではない気がしたからである。

  扇風機ビジネスマンとして笑ふ      野火

 昭和三十七年秋立命館大学に俳句同好会を発足させた。大学事務局に行くと顧問の教授がいるとか。そこで紹介されたのが国崎望久太郎教授(歌誌ポトナム主宰)だった。一年後に会員が二十名を超えると国崎教授は「松井利彦君が『近代俳論史』を出版したので本学の講師に申請しよう」と言う。結果筆者が卒業した年から実現した。立命館俳句は十年ほど続けたが「七〇年闘争」で学内の拠点を失い廃部した。
 一方、昭和四十五年、卒業と同時に、十代、二十代の仲間を集め「獣園」を発足させた。 

 その後、赤尾兜子に誘われて「渦」に在籍するが投句せず、兜子の急逝後休詠。本句集を編む6年前に梶山千鶴子主宰「きりん」に入会したという。千鶴子主宰には「収録句が硬いとご指摘されている。ひょっとすると草堂の影響かも知れない。次の五年日記は呼吸のような句に挑戦してみたい」とあった。
 愚生と知り合った頃は、すでに、大阪の洋装産業?という会社員で、東京出張の折は、当時の新宿南口にあった旅館を定宿にしていて、愚生は、必ず訪ねて行った。その宿もいまは新宿駅南口の再開発で無くなっている。まもなくして、さとう野火(佐藤浩〈ゆたか〉)は京都新聞社に転職し、定年までつとめた。いつの事だったか忘れてしまたったが、さとう野火は言うともなく、愚生に呟いた。「卒業して就職すると、みんな俳句を辞めてしまう。俺はそれが淋しい・・」、愚生は、ちょうどその頃、結果的に3年間ほど、意識的に俳句を書かない時期があった。再度、書き出すためには何が大切だったのか。簡単にいうと方法的にも行き詰まっていた。書きたくなるまで待とうと思ったのだ(もっとも、すべては忘却の淵に沈んではいるが)。たぶんその時は、「野火に、淋しい思いはさせたくない」と思ったにちがいない。髙柳重信は、最初は偶然に俳句に出会うが、二度目に俳句を選ぶ時が本当に俳句に出会うときだ、と言っていた。
 ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておきたい(実にオーソドックスな句風になっていた・・・)。

   大乗の空研ぐ風や初比叡        野火
   地に磁気の春眠深き北枕
   落款を押す極上のおぼろ月
   花筏巌にすがりし悲の記憶
   クローバー死者の形して少女寝る
   万緑のパレットに白絞る
   泡(あぶく)ごと海女浮く命綱十尋
   炎天下われに用なきビルばかり
   死にちかき金魚は己が泡追ひ
   通草の実とれそでとれぬ宙の笑み
   浄土とは薄墨色か蓮枯るる
   茜雲芭蕉が枯野どのあたり
   霜踏めば人口骨の響きあり
   成すことのまだあり五年日記買ふ

 さとう野火(さとう・のび) 昭和15年8月15日~平成24年7月26日。享年72.大分県竹田市生まれ。


撮影・芽夢野うのき「ポストへ落とすこころ桃色月見草」↑

4 件のコメント:

  1. さとう野火さんのお名前を見て、彼の人生が私の頭の中でつながった。城貴代美さん、久保純を君、国崎望久太郎先生、村上四明師、俳句集団『獣園』。就職して、休俳してしまった私、東野月沼です。大井恒行さんには広小路学舎でお会いした記憶が残っています。

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  2. お便り有難うございます。手元の「獣園」には、貴兄の「花期失った等身大の高射砲」の句がみえます。ご存知かも知れませんが、土井英一氏は定年後、久保純夫個人誌「儒艮」で、散文を復活されています。愚生は、プチ・老々介護・・・。このブログは窓です。ともあれ、お身体大切にご自愛下さい。城喜代美さんは、一年に一度しか出ない「豈」に、次号63号で復帰されます。

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  3. 失礼!貴代美でした(変換ミス)。

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  4. 大井さま、東野です。
    眠れぬままにパソコンに向かい、大井さんのブログを閲覧しました。町内会のお世話に励む日々です。ブログ「ヒガチャンの大坂まち歩き」を見てやってください。

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