2021年3月31日水曜日

黒瀬珂瀾「玄海島がPM2.5にかすむ 母国はありて父国はあらぬ」(『ひかりの針がうたふ』)・・・

 

  黒瀬黒瀬珂瀾第4歌集『ひかりの針がうたふ』(書肆侃侃房)、巻末に、エッセイ「博多湾の朝について」が置かれている。その中に、


 (前略)志賀島から少し南下した、博多湾の中心あたりが最初のポイントとなる。さて、僕らは一体何のために朝一番で船出しているのか――一言で言うと、貧酸素水塊の監視だ。貧酸素水塊とは、酸素がほぼ含まれない水の塊のこと。例えば、海底に深い窪みがあったりすると、上方と下方とで水が混ざりにくくなり、水中に層が生じる。底層では生物の死骸が分解されるなどして酸素が消尽され、生物が全滅してしまう。何かの拍子で貧酸素水が巨大な塊となり、海中をふよふよと動き出したりすると、軌道上の水生生物が大量死する。まさに「死の水域」なわけで、漁業関係者にとっては死活問題。その発生をいち早く察知し、海水を攪拌させるためのブロックを設置するなどの努力が港湾管理行政には求められる――そんな環境調査の一環として、僕らは明け方の博多湾に船を出す。

 ポイントに着くとまず水深計(レッド)を沈めて深さを測る。水深計と言っても目盛りを打ったロープの先に鉄の錘を下げた単純なものだ。手を離せばするするとロープが海に呑み込まれる。(中略)

 次に透明度盤を沈め、海水の透明度を計る。白くて丸い板を沈めて肉眼でどのあたりまで見えるかを計る。(中略)

 そのあとは波高測定、水色測定(赤潮が出ていないかの確認)、状況記録などが続き、溶存酸素量測定となる。(中略)

 能古島の緑が朝日にまぶしい。(中略)

 気温も上がり、今日の調査も終了間近となる。サーベイヤーの上げ下げを繰り返して来た手に鈍い痛みが走る。(中略)気いつけて帰りんしゃい、また来月な、と船を洗いながら船長が手を振る。機材を車に詰め込んだ僕らは帽子をとって礼を返す。こうして今日も博多湾の朝が終わる。帰ったら午後は娘をつれて行こう、そう思いながら帰路に着いた時、僕はまだ、半年後に博多を離れることになるとは知る由もなかったのだ。


 著者略歴によると、現在は、富山市の観念寺住職とあった。 また、集名に因む一首は、


  関門へ流るる海に十月のひかりの針がうたふ霊歌よ     珂瀾


 であろう。それにしても、愚生が最初に黒瀬珂瀾に会ったのはいつのことであったろうか、にわかには思い出せない。ただ、彼がまだ二十代前後の頃ではなかったろうか。その名「珂瀾」が示すように、当時は、塚本邦雄ゆかりにちがいないと、愚生が勝手に思っていたフシがある(事実は春日井建が最初らしい)。門外漢の愚生は、従って、その後の彼の足跡を追っていたわけでない。それでも、いつだっか、偶然に、図書館で彼の本を手にとったとき、タイガース一辺倒だった攝津幸彦の野球の句で「菊月夜君はライトを守りけり」を取りあげてくれていたことは記憶にある。そしてまた、本集では、身近の人たちのことも丁寧に詠んでおられる。そうしたことのなかった愚生には忸怩たるものが生まれる(子は、愚生の孫とさして齢も違わないようだ)。ともあれ、本集より、いくつかの歌を挙げておきたい。


  光漏る方へ這ひゆくひとつぶの命を見つむ闇の端より

  一時間かけて食みたる朝の粥けふのおまへの虹の根となれ

  昇る陽に影はのびつつ小さき刃に老いし漁師は梨剥きくれぬ

     北九州市は石巻の瓦礫二万三千トンを受け入れた

  セシウムをほのかに化粧(けは)ひ南へと遠流され来し瓦礫のあはれ

  鼻よりも腹たかだかと湯上りの児は駆けゆけり父より母へ

     除染作業はまず草を刈り、ひたすら地表の土を削る。

  黒き袋積み上げられてもう土に戻れぬ土がひた眠りをり

     双葉村 警戒区域

  [東電は地域とともに]人あらぬ村の電柱どれもにこやか

     除染の水すべて回収せよ、といふ。

  水洗ひされたる家にしたたれる水に言葉は湿りゆくのみ

  長靴を洗ひし水を持ち帰れ、とぞ言ふ如何に為すかは言はず

  冬田を削る男らの影とほく見てわが被曝けふ10μSv(マイクロシ―ベルト)

     全身線量測定

  先客の名を隠しつつ鉛筆を吾に渡せりスクリーニング受付 

  ゴミ袋提げつつ仰ぐ桜樹の、〈家〉を得て知るさみしさもある

  けふひとひ死なしめず寝かしつけ成人までは六千五百夜

  うみそらの澄みゆく朝に切る舵の肌寒を妻と分かちたきかな

  谿水に透明度(セッキ―)板を沈めゆく高千穂の春よ言葉はあらず   

  火の国に桜散りそめ明日はいまだ固きに会はむ加賀の桜に

  

黒瀬珂瀾(くろせ・からん) 1977年、大阪府生まれ。



        撮影・鈴木純一「三の糸しめて目の行く桜かな」↑

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