2022年9月26日月曜日

高山れおな「秋簾撥(かか)げ見るべし降るあめりか」(「俳句界」9月号より)・・ 


 「俳句界」9月号(文學の森)、特別企画は「安原葉インタビュー」、あと特集の一つは「私の俳句大原則」。自作句1句と論を、総勢19名が執筆している。ブログタイトルにした高山れおな「秋簾撥(かか)げ見るべし降るあめりか」には、「私の大原則『深・擬・麗・痴・新』」の題のもとに、


 「仁義礼智信」と地口になっている。儒教の五徳ならぬ(私の)俳句の五徳だ。深普通はシンだが、古くは深秘(しんび)をジンヒ、甚深(じんしん)をジンジンとも言ったので、やや無理やりながらジンということにさせてもらう。(中略)

 私は初期には本歌取りを盛んにやっていた。左に掲げた九・一一事件を詠んだ旧作もその種のものだ。長らく離れていたその技法に再帰したい気分もあるし、地口によって俳句大原則を示したのもそれゆえのこと。語呂合わせこそ本歌取りの基底にあるものだからだ。五つの価値の実現はおのおの異なる。自分の俳句に最も欠けているのは何か。それは深であろうと今は思っている。


 と記されていた。他に、興味を惹かれたのは、タイトルでいうと、池田澄子「既成の評価基準に阿(おもね)らない」、鳥居真里子「俳句は詩であり、体質が生む言葉である」、津川絵理子「原則を持たない」、堀田季何「俳諧自由」、福田若之「自身の手になじむものを書くこと」あたりであろうか。その福田若之は、


(前略)「口語」の書き手と思われている節もあるけれど、僕自身としては、あくまで書き言葉の「言文一致体」というほうがしっくり来る。連用形の「ず」など、口語的でなくとも言文一致体にふつうにみられる言葉は、僕もしばしば句に置く。(中略)

 そうやって、なじんだものが手元に残る。いわゆる国語とは別に、僕自身にとっての母語が、こうしてかたちづくられていく。


 と述べている。また堀田季何は、


 (前略)二十一世紀において、「俳諧」は、近現代の狭い範囲に捉われてはならないことや俳諧の精神を忘れてはならないことも示す。また「自由」も大事で、何から自由なのかを常に念頭に置いておかなくてはならない。


 と記している。ともあれ、以下に、執筆陣の句を挙げておこう。


  産土はいつも痣色夕焼雲         安西 篤

  葉桜の隙間隙間や光は愛         池田澄子

  神小さきものに宿れば吾亦紅       岩岡中正

  椿一輪からだからああ、出てゆかぬ   鳥居真里子

  いつもかすかな鳥のかたちをして氷る   対馬康子

  雷鳴に大江戸の空縮みゆく       稲畑廣太郎

  水鱧やふたりつきりの祝賀会       小林貴子

  見えさうな金木犀の香なりけり     津川絵理子

  立小便も虹となりけりマルキーズ   マブソン青眼

  消しゴムに小暗い栗鼠をからめとる    鴇田智哉

  抽象となるまでパセリ刻みけり      田中亜美

  霧越えて霧乗り出してくる霧は      堀本裕樹 

  血のあぢは塩と電気とすこし秋      堀田季何

  子にほほゑむ母にすべては涼しき無     髙柳克弘

  母の目へ耳へ雷来てをりぬ        中山奈々

  てざわりがあじさいをばらばらに知る   福田若之

  人白くほたるの森へ溶けきれず      浅川芳直

  金蝿や夜どほし濤の崩れ去る       安里琉太 



         撮影・芽夢野うのき「金秋の記憶の扉ひらく無患子」↑

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