2022年9月6日火曜日

飯田龍太「露草も露のちからの花ひらく」(『山盧の四季』)・・

          


  飯田秀實随筆・写真集『山盧(さんろ)の四季』(コールサック社)、副題に「蛇笏・龍太・秀實の飯田家三代の暮らしと俳句」とある。序は長谷川櫂「白雲去来」、跋は黒田杏子「山盧と私」。各ページには、飯田秀實による写真とエッセイ(山盧文化振興会会報「山盧」に掲載されたものだろう。文の末尾に年月が記されている)。巻末の飯田秀實の随想「俳人蛇笏、龍太を支えたそれぞれの妻」は、愚生にとってはとりわけ感慨深い。

 実は、愚生が俳句総合誌と言われる雑誌に原稿を書いた最初が飯田龍太論(「俳句とエッセイ」牧羊社)だったのだ。遠い記憶で、おぼろで申し訳ないのだが、飯田龍太の特集で、何らかの賞を受賞された際のお祝いのための特集だった。その特集記事のメインに近い位置だったと思う。明らかにその特集に水をさす内容だった。それでも、若書きの愚生にとっては、精一杯、渾身の論であったと思う。その時の編集者が、牧羊社に入社間もない島田壽郎(牙城)だった。そして、愚生にとってのその論は、当時の飯田龍太の自筆年譜に記されていない、ある空白を埋めようとするものだった。それは、兄の戦死に伴い、戦後、兄嫁を娶り、その二人の子どもに関わる表現(文字)の違いを明らかにしたものだったと記憶している(今手元に、その掲載誌がない)。このたびの飯田秀實は実に丹念にそれらの事情に触れてくれている。


(前略)いずれにしても、東京の女学校育ちで、結婚後は世田谷に住んでいた人が、生活圏の全く違う境川の田舎に幼い子一人とともに越してきたのだからその不安は計り知れないものがある。さらに戦死の報は、戦後二年経って届いたのである。二人の結婚については父も母も多くは語らない。さらに、二人の最初の子である純子は、小学校に入学する前年の九月に急性小児麻痺により一日で命を落としてしまった。私が四歳の時である。母によく言われたことがある。「秀實は手のかかる子だが、純子の言うことだけは聞いた。度胸があって気の利く子だった」事実だけに反論できなかった。母の悲しみは計り知れないが、その母の涙を私は見たことがない。(中略)

 祖母も母も俳人であり文筆家であった夫を陰で支えてきた。二人の俳人が後世に残る作品を生み、立派な選を貫きとおすことができたのはそれぞれの妻の存在が大きく関わっている気がする。

 龍太が雲母の終刊を宣言した後、二人はしばしば温泉に出かけた。長い時は一週間ほど滞在した。飯田家に嫁いだ母は、雲母終刊まで実家にもほとんど里帰りせず、一晩として家を留守にすることはなかった。


 愚生が当時、注目し、好きだった俳人のトップランナーの一人が飯田龍太だった。飯田龍太が、年譜に、意志的に留めなかったのには、たぶん理由があったのだ。しばらくして、島田牙城から、飯田龍太は怒っていた、彼自身は、会社をクビになることも覚悟した、と聞いた。今、思えば、三十歳そこそこの若僧だった愚生には、それら龍太の複雑な事情を慮ることは難しかっただろう。それよりも、その拙い原稿を掲載する決断をした牙城にむしろ感謝したい。


  松刈りし山のひろさや躑躅咲く       蛇笏

  山川のとどろく梅を手折るかな

  たましひのたとへば秋のほたる哉

  くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

  茶の木咲きみそらはじめてみるごとし

  をりとりてはらりとおもきすすきかな

  芋の露連山影を正しうす

  凪わたる地はうす眼して冬に入る

  

  いきいきと三月生(うま)る雲の奥     龍太

  春の鳶寄りわかれては高みつつ 
  白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり
  どの子にも涼しく風の吹く日かな
  山河はや冬かがやきて位に即けり
  手が見えて父が落葉の山歩く
  一月の川一月の谷の中
  大寒の一戸もかくれなき故郷
  雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし

 飯田秀實(いいだ・ひでみ)1952年、山梨県生まれ。

  

        中西ひろ美「山里の秋早うしてちつち蟬」↑ 

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