2019年5月16日木曜日
金子兜太「人刺して足長蜂(あしなが)帰る荒涼へ」(「LOTUS」第42号より)・・
「LOTUS」第42号(LOTUS俳句会)は、特集「金子兜太を超えて」である。執筆陣は丑丸敬史「俳句と土俗性」、髙橋比呂子「金子兜太の俳句」、九堂夜想「無の旅へ」。同人による一句鑑賞は無時空映、松本光雄、曾根毅、酒巻英一郎、三枝桂子、九堂夜想。なかでは、酒巻英一郎が「穭田を少女陰(ほと)擦り走るかな 兜太」の句を挙げて、
(前略)平岡正明が、たしか美人は八の字を描いて運歩すると云った件(くだり)を「思ひ出したのだが、女陰を支點としたエロスの永久運動は、をのこの生命力點とつねに無言交易を果たしてゐるらしい。おそらく女陰といふ表現さへ慎重に回避していたのではと思はせる重信が、肉體の不信、不在性を託ち、懐疑的に言語に真向かつてゐたのに対し、兜太の手放し肉体讃歌は、いまや貴重なる風景へと化してゐるかのやうだ。
と記しているのは、兜太の有り様をしごく真っ当に、言い当てているようで、世の兜太礼讃にはない皮肉な眼差しを喚起させる。本特集の提案者にして、かつて兜太の膝下にあった九堂夜想のアンヴィヴァレンツな心情は、その筆先を、真に、兜太をこそ乗り超える対象としてきたことをうかがわせる犀利なものだ。それは現在の九堂夜想の位置をも示していよう。例えば、「白梅や老子無心の旅に住む 兜太」の句を冒頭に挙げ、多くを費やしているが、
(前略)私の見るところ、五七五という俳句形式の特異性(それが他の文学ジャンルにはない決定的要素だが)とは、「私から”私”を切る」こと、さらに言えば「人間から”人間観念”を切る」ことであり、その〈脱ー主体〉〈脱ー人間〉〈脱ー共同体〉、総じて根源的(ラディカル)な〈問い〉の道にこそ、詩としてのあらたな俳句創造が拓かれるのでる。
と言挙げし、その結びには、
そして、はるかな歩みは、悠々たる「無心の旅」などでは決してなく、愚かなまでに、傷ましいまでに、この世と切り結び且つすべてを問い続けながら、ついに自己を消滅させてゆく「無の旅」であるような予感を抱いている。
と述べている。それでも兜太はそこに賭けたフシがある。それは兜太の生きるということだったに違いない。ともあれ、本号より一人一句を以下に挙げておこう。
天つ風乳もて摩羅を浄めんと 九堂夜想
鶏冠も
鶴冠も
落暉いま 酒巻英一郎
朧夜はだるき声だす生鏡 三枝桂子
枯るるとは芒の盲愛かも知れぬ 志賀 康
流れ星のイエスが過ぎて鱗と漁夫 曾根 毅
ささめごといろのあるらしささめゆき 髙橋比呂子
まるで自分で悲しみを探しているかのように次か
ら次とつらい思いをさせられる出来事が続く。し
かし神は、勇気を出しなさい、海の底にも道があ
る、と言われる。
鳥籠ごと夜明けに参加 神経も茎も 古田嘉彦
三叉路の風に枯葉のコロスかな 松本光雄
かざはなやつちのかむなぎみごもれり 無時空映
秋風や記紀に飛びのる草虱 丑丸敬史
天空に一滴水か汗か血か 表健太郎
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