2018年8月7日火曜日

中川智正「わが骨をわけるわけかた春の泥」(「ジャム・セッション」第13号)・・



 「ジャム・セッション」第13号(編集・発行人 江里昭彦)、挟み込まれた別紙「『ジャム・セッション』の今後について」には、

 本号の原稿は6月23日に印刷所へ送付しました。校正原稿が届くのを待っていたところ、7月6日に突如、刑が執行されました。急遽、中川氏の遺影を巻頭に掲げましたけれど、目次以降は7月6日の事態を全く反映していません。つまり、本号は追悼号ではありません。(中略)
 そこで、来年の睦月に第14号を、そして、中川氏の祥月命日である7月6日に第15号をもって、「ジャム・セッション」を終了します。しばらくおつきあい下さい。

           2018.7月31日
                                 江里昭彦

 としたためられていた。記事に、中川智正「私をとりまく世界について(その十二)」があり、2018年3月14日、東京拘置所から広島拘置所に移送される際の様子と拘置所職員に対して、「私は、東京拘置所の地下の出口を歩いてでましたが、私は思わず振り返っておじぎをしながら『ありがとうございました』と声を張り上げてしまいました」と記され、また、

 結局、午後六時頃に山陽道を出て広島の市街地へ入り、しばらく走って広島拘置所に着きました。カーテンを通して護送車の外で沢山のフラッシュが光るのが分かりました。護送車から降りる時、車内の時計で六時二十五分でした。十三時間手錠のまま護送車の中でした。車酔い、睡眠不足、そして後から思えば脱水でふらふらでした。到着直後の血圧は、収縮期が二〇〇、拡張期が一〇〇を越えていて、心拍も一〇〇前後でした。疲れているのに夜は寝られず、体重は五キロ落ちていました。(中略)
 東京よりも職員は気さくに声をかけてくれます。法律には定められていない収容者への対応が、東京よりきめ細かい感じです。朝、窓の外で鳴く雀の声を聞くのは十数年ぶりでした。ともあれ、私は広島で何とかやっています。

 とも記されていた。その他、食生活など、日常生活の記録を残すという意味でも麻原彰晃の服や食事のことについても書かれていた。貴重な証言だろう。
 江里昭彦は追悼・金子兜太で「兜太は野人の載冠」、「光州への旅」、書評などを執筆、彼の志向がよく伺える記事が多く充実していた。
 ともあれ、ゲスト作品を含め、以下に一人一句を挙げておきたい。

  誰彼となく手をつなぎ大枯野     諏訪洋子
   金子兜太氏の逝去に
  春荒や秩父や今日は花買う日     中川智正
  ガザへ運ぶ泣きも呻きもせぬ塩を   江里昭彦



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