2018年8月4日土曜日

八木博信「地平線あれば行きたしその向こうそこへ行けどもまた地平線」(『ザビエル忌』)・・



 八木博信第二歌集『ザビエル忌』(六花書林)、「あとがき」によると、1999年に上梓した第一歌集『フラミンゴ』から後の2002年までの作品を主に、それ以後の歌も入集したとある。そして、

 集中に多く「少年」「少女」とあるのは、ある時期、学習塾の講師や家庭教師を生業としていたので、その間に出会った子供たちである。子供とは無慈悲な宇宙人だ。ヘヴィメタルの帝王、オジー・オズボーンが「世の中で一番大事な仕事は”親業”だ」と言うのも当然で、人は子供時代だれもたがわず荒振神であったろう。

 と、記されている。ところで、愚生は山口県山口市生まれだから、日本で最初に布教した地として町のシンボルのように小高い山の亀山公園にザビエル教会の二つの塔が睥睨していて、高校生の頃、学校帰りによく立ち寄った遊び場だった。旧制山口中学時代の中原中也はそこに寝転んで学校を眺めていたらしい(授業をさぼって・・)。「山林に自由存す」国木田独歩の碑もあった。愚生が帰郷するときには、小郡(現在は新山口駅)から山口線に乗って湯田温泉を過ぎるあたりから教会の二つの塔が見える。ああ、故郷に帰ってきた、と思ったものだ。その教会も火事で焼けていまはモダーンな建物(教会)になっているが、愚生にはなかなかなじめない。
 フランシスコ・デ・ザビエルは1552年12月3日、中国を目指している時に病に倒れたと言われている。享年46。
 話はかわるが、愚生が初めて八木博信の名を認めたのは「俳句空間」という雑誌の新鋭作品投句欄であった。後にその版元・弘栄堂書店から句集『弾道』が出ている。アンソロジー・新鋭作家集『燦』にも参加してもらった(その以前から「短歌人」所属だったらしい)。思えば、その投句欄には、八木博信、佐藤清美、五島高資、高山れおな、岡田秀則、平田栄一、三島広志、宮﨑二建、水野真由美、オオヒロノリコ、倉阪鬼一郎、山口可久実、正岡豊、守谷茂泰など、他にも現在活躍中の若手俳人が競っていたのだ。そして、当時から短歌と俳句の双方をやっていたのが、八木博信、正岡豊や本集の版元・六花書林の宇田川寛之であった。
 ともあれ、本集よりいくつかの歌を挙げておきたい。

   使用済み生理用品入れられてわがチョーク箱羽衣印   博信
   すぐ怒るだけの先生分数のところにくるとその臭い息
   眼帯をしたがる少女見る勇気なくば眠れよ夢さえ見ずに
   日本国勢図絵で調べるわが国の弱き部分の確かな数字
   豆の木を斧でジャックが倒すまで俺とジャックの母との情事
   鳥籠に寄りそい眠るインコさえ翔ぶ日のためにたためる翼
   人だけを殺し家屋は壊さない爆弾効果図に教会がある
   ザビエル忌マラソン走者それぞれに折り返しゆく身を傾けて
   いませつに読みたしフランス革命史国旗の赤は同志の血潮
   守るべきものを持つゆえ両膝が軋みて太る中年男
   汚すだけ汚して捨てる手袋で守ったはずの手に傷がある

八木博信(やぎ・ひろのぶ)、1961年生まれ。


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